やぎ座
<私>の複数性の感覚
「猿の面をかぶった猿」という着想
今週のやぎ座は、「年年(としどし)や猿に着せたる猿の面」(松尾芭蕉)という句のごとし。あるいは、軽く仮面に手をやっていこうとするような星回り。
正月に猿回しがきて、猿に猿の面をかぶせて踊らせているのだという。なんとも滑稽な芸ですが、人間がやっていることもこの猿と同じで、本性とさして変わり映えのしないような面をつけて、必死に芸をしているつもりになっているに過ぎないではないか、という自嘲ないし自戒がおそらくは込められている一句。
ここで取り上げられているのは、いつまでも取り外しができる程度の仮面などではなく、肉化した仮面ないし年季の入った仮面であり、作者がさる年生まれだったことも考えると、徘人として日常と虚構、聖と俗とをたえず交錯させつつ生きざるを得ない職業病がそこに仮託されているのでしょう。
人はすべて仮面をつけて人と接して生きています。先生は先生らしく、若者は若者らしくといったように。自分はこうあるべきとかこうありたいといったイメージに、無意識のうちに合ったように演じようとするわけで、そうした仮面がなければ、私たちは余りにも無防備で危険なだけでなく、誰も自分のことを理解してくれないものです。
ですが、たまにはそうした妥協の産物としての仮面を外して、他者や世間と接する疲れを洗い流すひとときも必要なのかも知れません。
1月4日にやぎ座から数えて「世間体」を意味する10番目のてんびん座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、常日頃からついつい被っていることさえ忘れがちな仮面を、改めて仮面として意識していくべし。
第三の自分の自覚
慣れ親しんだ仮面の裏の、もうひとりの自分。それは自らの欲望の形であり、この世に生み出された欲望は自分なりの考えや意志を持って、ときにあなた自身から大きく遊離して、一個の他者としてひとり歩きしていくことがあります。
多くの文学作品でも登場してくる「もうひとりの自分」について、精神分析学者のオットー・ランクなどは「死の不安」と密接に関係していると解釈していますが、果たしてそこで死の危機に瀕している自分とは、一体いかなる自分なのでしょうか?
先の句で言えば、「猿の面」を着せられていることに気付いている猿は、その時点でもはや猿らしい猿とは一線を画した何らかの欲望を抱いているはず。それは猿という仮面と癒着した動物的なマインドとしての自分からすれば、まったくの異形の存在のようですが、よく見ると猿を回している人間に近い顔をしているかも知れません。
あるいは、そこには死んでいく古い自分と、生を得始めている新しい自分がいて、その交代劇をどこかで受け入れつつ見つめている第三の自分が存在しているのだとも言えます。
今週のやぎ座は、そんな風に何かしらの新旧交代劇が進行していったり、それを診させられたりといった状況に直面していきやすいでしょう。
やぎ座の今週のキーワード
三位一体説