やぎ座
そこに美はありやなしや
眼の純度
今週のやぎ座は、目玉おやじの衣替えのごとし。あるいは、これまでの自身の経験に基づいた思考習慣をきれいさっぱり洗い流していこうとするような星回り
例えば、いくら外見を綺麗に着飾ったとしても、それが本来そうであるように存在していなければ、つまり、本人にとってごく自然なものになっていないのならば、果たして美しいと言えるだろうか?
―否。青山二郎であれば、間髪入れずにそう答えるでしょう。陶器鑑賞家にして装丁家、そして美の追求者であった彼は、『眼の筍生活』という随筆で次のように述べています。
物の「在り方」は美の鑑賞なぞといううっとりした眼に、最初の印象を許すものではありません。一眼見て惚れたといいますが、文字通りそれは好き好きというもので、それとこれとは別の問題であります。好き好きという話になると、これはこれで大分面倒な趣味の事になりますが、併しもしもこの好き好きというものが、物の「在り方」と端的に一致する様になれば、先ず骨董屋より玄人といえましょう。
青山は「うっとりした眼」の例として「お茶を習って講釈を聞くから、変てこな茶碗が茶碗に見えてくる」ことを挙げ、「思考を用立てるから美なら美が見えてくると思っている、この一般的な眼に対する不信ほど危険な習慣はありません」と注意を促し、「眼玉の純度」あるいは、「美というものは存在しない。在るものは美術品だけだ」という言い方で対象の固有性やそのあるなしをきちんと見抜くことの大切さを説きました。
現実というのは、いつだって既に思考よりも一歩進んでいる。だから、美しいものを美しいと感じられるかどうかということも、余計な思考習慣をさっぱり洗い流していけるかにかかっている訳です。そう考えてみると、涙というものも、人がもう以前の物の見え方を刷新したい時に起きる生理現象であるようにも思えてきます。
12月27日にやぎ座から数えて「人品骨柄」を意味する7番目のかに座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、ひとつ骨董屋さんの玄人になったつもりで、改めて自分の眼をただ信じていくよう心がけていくべし。
発見する営みとしての芸術
対象となるのが特定の人間であれ、芸術作品であれ、存在しているだけで、なぜだかありがたい。そう思わせるものには、あなたの魂の片割れが潜んでいます。
例えば、そういうものにお金を払うという行為は、単に消費や浪費や経済的合理性ということを超えて、もっと「自分自身」を感じたいという衝動から発していますし、そうした感覚はあなたが「自分は誰と付き合っていくべきか?」という問題を考える際にも、大変重要なヒントを提供してくれるはず。
自分を知らず、自分に鈍感な人というのは、しばしば他人と付き合うということの根幹もまた見誤ってしまうものですが、仮に芸術を「発見する営み」だとすれば、その目的語に当たるのは常に自分自身ですし、自分を発見するのが上手になればなるほど、付き合うべき相手もまた自然に分かってくるもの。
逆に言えば、価値があるから付き合うべきだといった思考が習慣化すればするほど、そうした営みからは遠ざかっていきますし、「自分を発見する」ということが似た者同士やイエスマンばかりで周りを固めることとはまったく異なるということも理解できなくなっていくでしょう。
その意味で、今週のやぎ座は、どこかしらで“実”の隙間に開けた“虚”に目を開いていくような動きが出てくるかも知れません。
やぎ座の今週のキーワード
自分が変われば美しさも変わっていく