やぎ座
ただそこにいるだけでよい場所に立とう
現代人は愛し合えるか
今週のやぎ座は、「最も危ぶむべきは生命力の欠乏だ」という声なき声のごとし。あるいは、立派な個人であろうとするより、宇宙的な断片にならんとしていくような星回り。
心理学やカウンセリング、またそれらを汲んだ占いがいかに相談者や世間に“自己実現”を促そうとも、人間はしょせん「断片的な存在」であることから免れえず、それゆえに、私たちができることは自身を含め、周囲の人間に対して「実に嫉妬深い、恨みがましい、妄執の鬼と化するに終る」ことだけなのだ、と。そう説いたのは、近代文明が人間生活にもたらす悪影響を一貫して主題として扱ってきたD・H・ロレンスであり、その畢生(ひっせい)の論考が『黙示録論』(1929)でした。
とは言え、現代人はいくら「断片的」であるとそしられようとも、もはや個人主義を手放そうとはしないでしょう。一方で、いつの時代も人間は他者や何らかの共同体との結びつきを求め、その成果として近代文明を築くにいたった訳ですが、ロレンスはそうした近代的な精神の在り様について、次のように厳しく批判しています。
キリスト教と私たちの理想とする文明とは、長く続く逃避の一形態だった。こうした宗教と文明が際限なき虚偽と貧困を、物質の欠乏ではなくそれよりずっと危険な生命力の欠乏、すなわち今日わたしたちが経験している貧困を生んできた。生命を欠くよりパンを欠くほうがましだ。長く逃避を続け、そうして得られた唯一の成果が機械とは!
では、私たちはどうすればいいのか。その点について、例えば『黙示録論』を翻訳した福田恆在は、「近代は個人のうちにそれ(愛の前提となる自律性)を求め、失敗した」のだと喝破した上で、互いに愛し合っていくためには「(自律性を)個人の外部に―宇宙の有機性そのもののうちに」求めていかなければならないのだと訴えており、それはロレンスの「まず日輪と共に始めよ」という言葉に収斂(しゅうれん)していきます。
8日にやぎ座から数えて「与える愛」を意味する5番目のおうし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、意地になって個人主義を貫こうとするより、積極的にコスモスの一部としてあろうとしていくべし。
世界を泳ぐ
たとえば、イタリアの哲学者コッチャは、植物はみずから狙いを定めて動くことも、特別な仕方で働きかけることもなしに、ただ<存在する>だけで世界を変貌させてきたのであり、あらゆるものが相互に「浸透し浸透される」世界に在ることが可能なのだと言います(『植物の生の哲学』)。
ここでいう「浸透」ないし「浸り」とは、主体と環境、物体と空間、生命と周辺環境と、ただ単に「並置」ないし「隣接」しあうのではなく、たえず触れ合い、交じり合い、ともに世界を流動化する(⇔固定化する)コズミックなプロセス、流動体の世界を成立させる運動の一部としてともに息づいていくことに他なりません。
植物は光合成にせよ、根をはることにせよ、やることなすことがことごとく自分たちを取り巻く周辺環境へと浸透することと、逆に浸透を受けることという、作用と受容の形式上の混合をたえず生きている訳ですが、これは人間においては水中に浮いていたり、泳いでいるときに体験していることに近いかも知れません。
その意味で、今週のやぎ座もまた、何かを具体的に考えたり望んだりする以前のレベルにおいて、いかに存在することがすなわち<世界を創りあげる>ことであれるか、ということが問われていくでしょう。
やぎ座の今週のキーワード
花咲く場所に位置しなさい