やぎ座
異なる道の開拓
ただ座して運命を甘受するのでなく
今週のやぎ座は、六の宮の姫君に足りなかったもののごとし。あるいは、生を「死」という形できちんと完成させるべく、生きて生きて生き抜いてやろうとするような星回り。
茶番だとわかっていてもそれに付き合わなければならない、あるいは、「もうどうしようもないのだ」という既視感のある無能感を、いま多くの人が改めて感じているはずですが、ここで思い出されるのが、漫画家の山岸涼子の『朱雀門』という作品です。
中学生の女の子である千夏と、その叔母でフリーでデザインの仕事をしている30代前半の独身女性の春秋子(すずこ)さんという2人を軸に展開されるこのお話は、春秋子さんが千夏の部屋で彼女がたまたま読んでいた芥川龍之介の『六の宮の姫君』を見つけるところでグッと核心に入ります。
『六の宮の姫君』というお話では、ある平安時代の姫君が、親に死なれ頼れる人もおらず、途方に暮れている。世話をしてくれた男も、任を授かって京から遠く離れた地へ行くために去ってしまう。姫君はおいおい泣くばかりの日々で、結局、姫君は屋敷も失い、朱雀門の下で成仏することなく息を引き取る。その後、ほどなくして門のほとりでは、女の悲壮な泣き声が聞こえるようになる。法師は言う、あの泣き声は「極楽も地獄も知らぬふがいない女の魂でござる」と。
千夏は「これじゃあんまり姫君がかわいそうじゃない?」とこの結末に疑問を持ちますが、叔母はむしろそこが芥川の凄いところなのだと告げ、「『生』を生きない者は、『死』をも死ねない…と彼は言いたいのよ」と返すのです。
時代的に仕方なかったところはあるとは言え、確かに六の宮の姫君はただの一度も生活苦を改善しようとも、男を追いかけたり愛そうともせず、自分の運命を自分でどうこうしようと努力しませんでした。ただ襲ってくる運命を甘んじて受けるだけだったのです。
春秋子の指摘を踏まえて読むと、この六の宮の姫君はどこか今の大多数の日本国民の姿と重なりはしないでしょうか。その意味で、27日にやぎ座から数えて「修業」を意味する6番目のふたご座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、どうしたらみずからの「生」を生きて生き抜くことができるのか、考え動いていきたいところです。
子規の求道
例えば、もともと俳句というのは決して王道を歩いて真っ向勝負をする代わりに、いったん離脱するとか、斜めから切り込むとか、そういう対抗するものとしての本質がある芸術で、俳句に哲学性と技巧性を持ち込んで高度に結晶化させた江戸時代の松尾芭蕉などは、あえて旅に生きる漂泊に徹することでその境地を深めていきました。
ただ、時代が進むにつれそうしたことが次第に難しくなっていった中、明治時代において俳句革新を志し、俳句と短歌を日本近代詩として刷新した正岡子規の場合は、長い病床生活こそがその鍵となりました。
結核からカリエスを患って、35歳の若さで亡くなるまので7年間は根津の一軒家でほとんど寝たきり生活を送りましたが、そこで生活空間が極端に狭まっていった。子規はそれを逆手にとって、目に映るわずかな空間を細密画を描くように、ものすごく微細に詠んだり、幽体離脱のように自分の体を脱け出して、実際には見えるはずのない庭の光景を詠んでいくことで、芭蕉とは異なる道を開拓していったのです。
いずれにせよ、新しい道を開拓していく際には、何らかのハンデを負いながらやるというのがやり方の常だった訳です。同様に今週のやぎ座もまた、既存の道とは異なる自分なりの道を開拓する意思を、あらためて強めていくことがテーマとなっていくでしょう。
やぎ座の今週のキーワード
ハンデを逆手にとること