やぎ座
出入りの活性化
たましいのピアノ練習
今週のやぎ座は、『ああ春はまだ暗がりに置くピアノ』(中山奈々)という句のごとし。あるいは、予感を“音楽”に変えるための訓練をひそかに行っていくような星回り。
人気のない場所に取り残され、ひんやりとしているピアノに、立春をすぎてぶり返す寒さのなかで縮こまる人間の姿を見出した一句。いや、その逆だろうか。
いずれにせよ、春はまだその本領である出会いと別れの交錯を演出するほど暖まっても潤んでもおらず、ピアノの周りにはそれを演奏する者も、奏でられた音楽に耳を傾ける聴衆もいない。そこにあるのはただ空白と、それを無意識に埋めるうっすらとした予感の「ああ」。
ああ、布団の中でなんだか悩ましい気分にひたすら没頭したいな。
ああ、桜舞い散る昼下がりに、気の置けない友人たちと飲酒したいな。
ああ、ずっと頭の隅に引っかかっていた相手や景色と今こそ再会したいな。
こういう、いつどこから湧いてきたのかも分からないような「ああ」は、そのまま頭の中で音楽になる。もちろん、それが実際にいつ演奏されるかは分からないが、そうして目に見えない楽譜のようなものが身体から溢れてきたときこそ、春は訪れるのではないでしょうか。
2月20日にやぎ座から数えて「訓練」を意味する3番目のうお座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、自然に身体から流れ出していくように予感を蓄積していくべし。
新しい血の流入
俳句というと、「ポエム」という言葉と同じような文脈において、どうしてもその時どきの感慨を込めた内面的かつ個人的な営みというイメージが強いのではないでしょうか。
ただ、じつは江戸時代に栄えた文学形式としての俳諧というのは、ほんらい共同体での遊戯性を高めた“集団文芸”であり、いわば同じ一座に参加する「連衆(れんしゅ)」たちの文芸的対話ともいうべき詩心の交歓の所産に他なりませんでした。
そこでは、読者は同時に作者となり、作者は読者となって、作り手と読み手は交互にその役割を交替しながら、共同で1つの作品の形成に参与していった訳ですが、ここで特に注目しておきたいのは、そうした「座」にはたえず“新しい血”の流入が必要とされていったということ。
つまり、座というのは常に閉鎖性に傾いて停滞に陥る危険と背中合わせであり、例えば松尾芭蕉などはそうして停滞を感じた時こそ、新しい座や古人の詩心との触れ合いやを求め、旅に出たのです。
今週のやぎ座もまた、今もし少しでもみずからが停滞していると感じたなら、どうしたらそこに新しい血を入れられるかを可及的速やかに検討してみるといいでしょう。
やぎ座の今週のキーワード
新しい血としての予感