やぎ座
余計なものを削ぎ落す
主観のデバッグ作業
今週のやぎ座は、『緑陰に網を逃げたる蝶白し』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、「〇〇はこんなものだ」という思い込みを解除していこうとするような星回り。
虫網を逃れた蝶が緑陰にいるのだという。ただ「白き蝶」ではなく、「蝶白し」としたことでそこに余白がうまれ、蝶はまるで青い鳥のように完全には捉えきれないものとして、視界の半ば外をいつまでもひらひらと舞っているのだと言えます。
作者の句はいつも言葉遣いが平明で、言葉の流れもごく自然に配置されているので、読者は思考力に負担をあまり感じずに読むことができますが、それは作者が「小主観」すなわち、ごくつまらない主観の押しつけによって句が濁ることを嫌って、これ見よがしな主観の暴露や思想の開陳をことごとく削ぎ落していくがゆえに成り立つ絶妙な塩梅によるところが大きいように思います。
人間の顔はこんなものだと考えて書いた画(え)は面白くない。ある一人の顔をつかまえて、顔ということも忘れて、ただ目に映る線、凹凸、光、陰翳、それから特に画家がそれから受けた感じなどを大事にして写生したものになると、素晴らしい画になるだろうと思う。
掲句はまさにそんな作者の言葉をみずから実践してみせた好例に他ならないわけですが、7月29日にやぎ座から数えて「深い思い込み」を意味する8番目のしし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、ただ目に映った事実の通りに認識をふちどり直していきたいところです。
「是風」に「非風」を交ぜていく
歳をとることは可能性が限られていくことを意味し、できることや選択の自由も年々失われていく。「転職35歳限界説」などもそうですが、多くの人はややもすると歳をとることや衰えることを一面的に「ネガティブなもの=有限性」と考えがちです。
しかし「能」という芸術を完成させた世阿弥は、少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消え、といったように人生を段階的な喪失のプロセスとして捉える一方で、喪失と引き換えに何か新しいものを獲得するための試練としての「初心」を絶えず迎えていくのだと繰り返し述べています。
例えば、『風姿花伝』には「年来の稽古の程は、嫌いのけつる非風の手を、是風に少し交じうる事あり」という文章がありますが、これは若年から老年にいたるまで積んできた稽古のなかには、「嫌いのけつる非風の手」すなわちこれまで苦手とし避けてきたようなこと、やるべきでないとされてきたことを、「是風」つまり得意にしてきたことや、好んでやってきたことの中に取り入れて交ぜてきた、という意味。
世阿弥にとって人生とは、こうした自由の境地を獲得していくためのプロセスでもあったのです。今週のやぎ座もまた、そんな世阿弥的な視点から現在自分が向かい合っている景色を改めて描き出してみるといいでしょう。
やぎ座の今週のキーワード
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