かに座
人と人とはわかりあえないが基本
深い経験の感触
今週のかに座は、ある男女の会話の噛み合わなさの奥にあるもののごとし。あるいは、「相手を理解するということ」の難しさについて、改めて思いいたっていくような星回り。
村上春樹の『象の消滅』という短編小説があります。これは知り合ったばかりの若い男女が、ふとした拍子にその状況にはまったくふさわしくない不可解な話題について会話を交わし、別れるまでの短いお話なのですが、結局ふたりは会話が嚙み合わず、どこかが決定的にすれちがったまま終わります。
その話題というのが、ある町で飼育されていた象がある日突然、飼育員とともにいなくなってしまったというもので、すれ違いの原因は明らかにその話題自体にある訳です。村上自身はその話を「あまりに特殊」で「それ自体が完結しすぎている」と形容していますが、それは一体どういうことなのか。
当然「象の消滅」とは何かの隠喩なのですが、ここではそれがいったい何を表しているのかという点には触れません。しかし、そもそも「経験」には他人とは決して分かち合えない領域というものがあるのではないでしょうか。その点について、文芸評論家の加藤典洋は次のように述べています。
こういう個人の奥底に沈んだ話は、わかりあえないということが本質です。一般的には人と人をつなぎません。隔てます。しかし、誰もが長い人生を生きていく間には多かれ少なかれそういう経験をもちます。人にはけっしてわかってもらえない類の経験です。深い経験というものはそういう本質をもつのです。そのことがわかると、相手が自分にはけっして「わからない」経験をもっているということの理解が、相手を理解するということの意味だということも、わかるようになるでしょう。(『村上春樹の短編を英語で読む1979~2011 上』)
5月1日にかに座から数えて「共有の深み」を意味する8番目のみずがめ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、自分が向き合う相手もまた「人にはけっしてわかってもらえない類の経験」をもっているのだということを、頭の隅に置いていきたいところです。
人それぞれの孤独
作家で翻訳家の須賀敦子の半自叙伝でもある『コルシア書店の仲間たち』のあとがきには、次のような一節があります。
それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣あわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。/若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。
コルシア書店の支配人であった夫のペッピーノと共に、須賀は書店の文化運動に熱中し、しかしその運動の内容自体にはあまり触れずに、そこで出会った人びとの肖像をエッセイにして描いていきました。
その一人ひとりの肖像が、どこか生き生きとして読者の胸に迫ってくるのは、仲間たちの「究極においては生きなければならない孤独」というものを、須賀がきちんととらえていたからでしょう。今週のかに座もまた、そうした人知れず確立された孤独の輪郭を、自分なりになぞっていくべし。
かに座の今週のキーワード
孤独は人びとに想像されるほど荒野でない