かに座
エッジに立つ
実存のぐらつき
今週のかに座は、「深い遊び」という言葉のごとし。あるいは、よりディープな夢を見るために、日常生活のなかに際どい行事を取り入れていこうとするような星回り。
人類学者のギアーツは、バリ島のコック・ファイト(闘鶏)について分析した論文の中で、そこでは普段、あからさまな衝突を嫌うバリ人たちが、激しい攻撃によって互いに血を流しあう鶏の闘いに異様なまでの熱狂でもって、「法を犯してまでも」すすんで巻き込まれていくのだといい、その意味で、かつては闘鶏はバリ島における重要な社会的行事だったのだと言います。
こうした闘鶏には重要な特徴があって、賭け金が高額の「深い」試合では、物質的な利益より、威厳や名誉、地位など、当人たちにとってよりかけがえのない価値をもつものが賭けられるのだそう。もっとも、それはあくまで象徴的なものであって、勝負の結果によって、現実の地位などが取引される訳ではなく、その場限りでのことなのだと。
ではなぜ人びとはそんな象徴的なはく奪ゲームに深く熱中するのか。この点について、ギアーツは「バリ人にとって遠回しに与える侮辱ほど愉快なことはなく、遠回しに受ける侮辱ほど苦痛なものはな」く、したがって彼らは地位の急転に伴う感情の複雑で激しいうねりを通して、彼ら自身の物語を解釈しようとしているのであり、闘鶏はバリ人にとって「一種の感情教育」のための装置になっているのだと述べています(『文化の解釈学Ⅱ』)。
24日にかに座から数えて「美学」を意味する6番目のいて座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、辛苦も賭けるものもない「浅い遊び」ではなく、自身の存在の根拠を賭けざるを得ないような遊びにこそ参加していくべし。
提灯もって橋を渡ってゆく女の子
例えば日本では、古くから各地で「行き逢い坂・行き逢い橋」という話が伝えられてきました。これは或る土地の神と異なった土地の神とが出会ったところで、たがいの領土の境い目を決めるという話と、巫女の資格をもった村の女が周期的に巡りくる異人すなわち神を迎えに行く祭祀儀礼とが一つになったものとされています(折口信夫『女房歌の発生』)。
そうやってかつての日本人は直接見えるはずもなく関わるはずのない神と、じかに交通する時空間を「祭り」という形で定期的に経験する機会を保ってきた訳ですが、野山の精霊の存在さえも信じられなくなり、代わりに死ねば無になるといった素朴な唯物論的科学を信じるようになってしまった現代日本において、そうした神と交通できるような時空間の設定は、すっかりレアなものとなってしまいました。
そして、そうした祝祭の頻度の減少に応じて、人びとの遊びもまたますますどこか気の抜けたものになってしまった。その意味で、今週のかに座は、冷笑的な笑いとともに自我の面の皮を厚くする代わりに、どこか少女のような心持ちをもって“エッジ(境い目)”に繰り出してみるといいでしょう。
かに座の今週のキーワード
真剣に遊ぶこと