かに座
だんだん自由になっていく
自己分析ではなく
今週のかに座は、東山魁夷における絵画のごとし。あるいは、みずからの成功よりも挫折をこそ熱をもって語っていこうとするような星回り。
昭和を代表する日本画家の一人で、特に戦後に入って風景画の分野では国民的画家とされた東山魁夷は、描く人であると同時に、書く人でもありました。その精神的自伝といってもよい『風景との対話』のなかで、そうした自分の進むべき道を照らし出したのは、ある時期に陥った一種のスランプ体験だったのだと書いています。
あの時分、どうして私の作品は冴えなかったのだろうか。あんなにも密接に自然の心と溶け合い、表面的な観察でなく、かなり深いところへ到達していたはずである。それなのに、私の感じとったものを、すなおに心こまやかに描くことが出来なかった。表現の技術が拙かったのだろうか。いや、それよりも、大切な問題があった。
絵を描こうとした途端、自然は生けるものではなくなって、単なるひとつの画題となってしまう―。東山がここで言っている「大切な問題」とは、「素朴で根元的で、感動的なもの、存在の生命に対する把握の緊張度が欠けていたのではないか」ということであり、「そういうものを、前近代的な考え方であると否定することによって、新しい前進が在ると」考えていた自分の考え方そのものにあるのだ、と核心部分に分け入っていくのである。
これは自己分析というより、みずからの生き方の深部に踏み込んでいったと表現した方が妥当でしょう。同様に、8日にかに座から数えて「中長期的ビジョン」を意味する11番目のおうし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、普段なら黙してしまう内容をこそ語っていくべし。
「是風」に「非風」を交ぜていく
歳をとることは可能性が限られていくことを意味し、できることや選択の自由も年々失われていく。「35歳転職限界説」などもそうですが、現代では多くの人がややもすると歳をとることや衰えることを一面的にネガティブに考えがちです。
しかし「能」という芸術を完成させた世阿弥は、少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消え、といったように人生を段階的な喪失のプロセスとして捉える一方で、喪失と引き換えに何か新しいものを獲得するための試練としての「初心」を絶えず迎えていくのだと繰り返し述べています。
例えば、『風姿花伝』には「年来の稽古の程は、嫌いのけつる非風の手を、是風に少し交じうる事あり」という文章がありますが、これは若年から老年にいたるまで積んできた稽古のなかには、「嫌いのけつる非風の手」すなわちこれまで苦手とし避けてきたようなこと、やるべきでないとされてきたことを、「是風」つまり得意にしてきたことや、好んでやってきたことの中に取り入れて交ぜてきた、という意味。
世阿弥にとって人生とは、こうした自由の境地を獲得していくためのプロセスでもあったのです。今週のかに座もまた、そんな世阿弥的な視点から現在自分が向かい合っている景色を改めて描き出してみるといいでしょう。
かに座の今週のキーワード
絶えず「初心」を迎えていく