かに座
断絶から連続へ
生死の長短の時間があればこそ
今週のかに座は、那智の原生林での南方熊楠の体験のごとし。あるいは、みずからの存在のちっぽけさや、その一生の小ささとは裏腹な、何らかの巨大なものの運動の一部に取り込まれていくような星回り。
民俗学者の南方熊楠(みなかたくまぐす)は、自身の研究対象として深く魅了された粘菌の生態のなかに、生命の根源とも言うべき運動性を見出していった人物でもありました。
刻々とその形を変え、アメーバのように離合集散を繰り返しながらバクテリアなどを捕食するべく動き回る「変形菌」と呼ばれる状態と、いわゆるキノコのような複合的な構造体となって胞子を飛散させる「子実体」と呼ばれる状態のあいだで、あるいは環境の変化に応じて個人と集合のあいだを行ったり来たりする「粘菌」の存在のあり方は、人間にとっては自明と思われている生と死の不可逆な関係性を逆転させるどころか、それらに連続性をもたせるものでもあったのです。
熊楠はそんな粘菌のきわめてミクロな生態のなかに、この宇宙のリアルな現実があますことなく表現されていることを確信し、そのメカニズムについて「常に錯雑し、生死あり。また生死の長短の時間があればこそ、世間が立ちゆくなり」とも述べました(『南方熊楠書翰―高山寺蔵 土宜法龍宛1893-1922』)。
無数の胞子をまき散らす一本の柱のような構造体(子実体)が死ぬと、やがて「混沌たる痰」のようなもの(変形菌)となり、そこからまた新たな生命の土台が屹立していく。この無限なる繰り返し、「生形が滅して、生力が他の力に変ず」る過程こそが、この宇宙のもつメカニズムなのだ、と。
7月10日にかに座から数えて「世間体」を意味する10番目のおひつじ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、構造体フェーズにあるにせよ、変形菌フェーズにあるにせよ、そうした循環のプロセスのなかに自分もあるのだという実感が不思議と湧いてくるかも知れません。
もっとつながりを作るための言葉
現代社会では、主にビジネス界隈を中心に「はっきりと分かりやすく」訴えたい内容を訴え伝えていくべしという考え方が取り入れられるようになって既に久しいですが、そこではあいまいな言葉やメッセージ力のない弱い言葉がもれなく非難の的ともなってきました。
例えば、だいたい、そのうち、適当、いつしか、しだいに、雰囲気、気配、塩梅、大筋、具合、加減、いろいろ、そんなところ、ひとまず、一応、まずまずetc.
松岡正剛はこうした日本語の言葉を「夕方的な言葉」と呼びました。夕闇が人びとの輪郭や景色との境界線を溶かしていくトワイライト・ゾーンのように、あいまいな領域やあいまいな動向に反応するための言葉をそう呼んで、断固として擁護したのです。
それは縁と縁、情報と情報、心と心の「つながり」というものが、必ず弱くあわく重なりあっているような場所で成立するものだから。すぐさま否定形が用意される「成功」や「勝ち組」などの強い概念や言葉ではなく、「ぼちぼち」や「まずまず」などの弱くあいまいな状態を通してネットワークの新たな展開は生じるのであり、それは「このへん」や「あのあたり」といったそれ以外の言い方では指し示せない領域で成立する訳です。
その意味で、これで行けば間違いないといったような勝ちパターンや確実なパースペクティブがことごとく崩壊しつつあるような現代社会では、多様でケースバイケースな「夕方的な言葉」の重要性がますます増しているのではないでしょうか。今週のかに座もまた、そうした夕方的な言葉遣いをあえて公的に試みていくことがテーマとなっていきそうです。
かに座の今週のキーワード
逸脱してしまったものや人を再びサイクルに入れていくために