かに座
花咲かす樹のごとく
「目的」も「必要」も関係ないところ
今週のかに座は、意味の外への連れ出し。あるいは、無条件に「ともにいること」をただただ受けいれていこうとするような星回り。
哲学者の鷲田清一は、『「聴く」ことの力』のなかで、患者の話をただ聞くだけで、解釈を行わない治療法を例にあげつつ、ケアというのは「なんのために?」という問いが失効するところでなされるものだ、と主張しています。
他人へのケアといういとなみは、まさにこのように意味の外でおこなわれるものであるはずだ。ある効果を求めてなされるのではなく、「なんのために?」という問いが失効するところで、ケアはなされる。こういうひとだから、あるいはこういう目的や必要があって、といった条件つきで世話をしてもらうのではなくて、条件なしに、あなたがいるからという、ただそれだけの理由で享ける世話、それがケアなのではないだろうか。
特定の「目的」も「必要」も関係ないところで、すなわち、あらかじめ自分で立てた計画や心に秘めた算段に固執せず、相手が入り込めるような何もない余白をもって、ただ相手を「享(う)ける」こと。鷲田はそれこそがケアなのではないかと言う訳ですが、こうしたことがわざわざ論じられなければならないということは、いかに社会に「押しつけの利他」が跋扈(ばっこ)しており、私たちがそれにうんざりしているか、それに無意識に応えてしまってきたことで疲弊しているかを表しているのではないでしょうか。
親であれ恋人であれ子供であれ、何の条件もなしに、ほかの誰かと「ともにいる」ことが難しくなっている現代社会において、いかに他者を意味の外へ、自由な余白へと連れ出していけるか、そこにとどまれるか。4月6日にかに座から数えて「安心」を意味する4番目のてんびん座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、ひとつそんなことを念頭においてみるといいかも知れません。
共同存在的な感覚
人間は、より大きな全体の一部としてあることで初めて、存在し続けていくことができますが、それは閉じて自分を守ることに慣れてしまった人にとっては、とても恐ろしいことのように映ります。
自分を開いたら、大事なものを傷つけられ、価値を奪われ、草をむしるように花を摘まれ、そのへんにポイ捨てされるのではないか、と体をトゲのようにこわばらせては、花開くことを拒絶する。それもまた人間の現実です。ですが、どうかぜひ、そうした人間中心の世界から一歩外へ出て、「花咲かす樹木」になったつもりで過ごしてみてください。
例えば、何かの拍子で地上近くの枝が折られ、花がダメになったとしても、樹そのものの価値が減ることはありません。花は樹上のいたるところで咲き、その花のどれもが自分であり、また花粉を運ぶ虫たちや、花を愛でに集まる人間たちの中にも、花は存在し、やはりそれら全体が自分でもある。
今週のかに座もまた、そんな風に私たちが互いに好いたり嫌ったり葛藤しあいながらも、相互に関係しあいながら存在することの不思議さに、改めて触れていくことができるかも知れません。
かに座の今週のキーワード
ただともにいること