かに座
ずーっと全然分からないなぁという感覚
枯れ木に春
今週のかに座は、「婆子焼庵」という公案の青年僧のごとし。あるいは、自分なりの一生の問いに向きあっていこうとするような星回り。
禅の公案のうちでも最も難しいとされているものに「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という公案があります。この公案がある限りは決して修行を卒業できず、生きている限り禅の修行は一生続くのだと考えられていたのだとか。
ざっと公案の大意を説明すると、あるお婆さんが1人の青年僧の衣食住すべての世話をして20年がたったところで、年頃の娘に飯を運ばせ始めます。そしてある日、娘に青年僧へ抱きつかせて「このあたしをどうしてくれます」と言わせる。対して、青年僧は「枯木寒巌に倚りて、三冬暖気なし」と出来あいの句で答えた。ところが、娘の報告を聞いたお婆さんは、俗物のニセモノだと青年僧を追い出し、草庵を焼き棄ててしまったのです。
さあ、この話をどう捉えたらいいか。青年僧の「枯れ木が寒さ厳しさにすっかり馴染んでいる(ように自分は娘になど眼中にない)」という答えは立派ではあれど、いかにも四角四面であり、柔らかさに欠ける訳ですが、一休宗純はそれに「枯れ木に再び春が巡って、青い芽を吹く」という詩を付したのだと言います。
つまり、お婆さんが娘を与えるという余計なこと(老婆心の発揮)をしたばかりに、書物や座学では決して会得できない「内側から芽生えてくる力」が青年僧に促されたのであり、それくらい、禅と言えども、男女の問題だけは決まった解答を出せないし、自分自身で処理していく他はなく、むしろ禅の修行者こそ、それが求められるということかも知れません。
29日に自分自身の星座であるかに座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、「枯木寒巌に春が巡って、花が咲く」ために、あらかじめ決まっている答えもなく、一筋縄ではいかない問題にどうぶつかっていくべきか、ということが問われていくことでしょう。
右も左も見失ってから
「老人1人が死ぬことは図書館が1つなくなるのと同じこと」。これはアナン元国連事務総長が演説に引用したアフリカのことわざですが、これがほとんど口伝でその知恵や技術が伝えられてきたマタギ(山人)となれば、その言葉の重みはますます増していくように感じられます。
彼らはクマやシカをとるだけでなく、ミツバチや木々や草花の世話までこなし、まさに自然全体を相手にしており、ある人いわくマタギとして一人前になるには3年修行してやっと初級終了くらいの年数がかかるのだそうです。師がやっていることを見よう見まねでやってみるのがマタギ修行の基本であり、失敗して覚えていくのでなければうまくはならないのだそうです。
そしてこうしたマタギ修行の在り様は、どこか今のかに座の人たちにも通底しているところがあるように思います。すなわち、今週のかに座は、どこにも教科書や決まったカリキュラムなどない“修行”を、改めて体に叩き込んでいきたいところです。
かに座の今週のキーワード
自然全体を相手にしつつ、自身もまた自然そのものになっていこうとすること