かに座
自分に穴をあける
鶴の空あり
今週のかに座は、『白湯(さゆ)さめしごとくに鶴の空はあり』(友岡子郷)という句のごとし。あるいは、小さな脳内世界を守るあつい壁を粉砕していこうとするような星回り。
鹿児島県の出水市には、毎年10月中旬から3月にかけて、1万羽以上の鶴が冬を越すためにやってくるのだそうですが、掲句も同地を訪れた際に詠まれたもの。
明け方の空にうずまく鶴たちの、黒い群舞と大音響の下で、作者はただただ驚嘆の叫びを発するのみだったのでしょう。そのエクスタシーは小さな脳に詰め込まれた言語を粉砕し、ただただ虚脱するのみだった。気付けば目の前に鶴の大群が消え去ったあとの、ぽっかりとした空漠感だけがあり、そのことを「白湯さめし」という表現で捉えてみせたわけです。
想像をはるかに超えた圧倒的なエネルギーに圧倒され、打ちのめされる経験というのは、同種の人間の集まりであるとか、人間界のごく内側で形成されるぬるま湯的環境では決して体験することはできませんが、いつしか現代人の多くはそうした限られた人的環境だけが世界のすべてであるかのように錯覚するようになってしまったのではないでしょうか。
その意味で、11月30日にかに座から数えて「同一性の危機」を意味する9番目のうお座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、できればみずから打ちのめされにいくくらいの気概を発揮していくべし。
視座の転回
ナチスによる収容所体験で父母と妻を失いながらも生還し、その体験を『夜と霧』(原題は『ある心理学者の強制収容所体験』)として1946年に刊行したフランクルは、その翌年の公演で次のようなことを語りました。
私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。(中略)生きていること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。(『それでも人生にイエスと言う』山田邦男・松田美佳訳)
この人生の意味を問うことから、問われていることに応えることへという180度の転回は、実際にフランクル自身にも起きていたことでした。というのも、『夜と霧』の出版を当初は匿名で、より厳密には被収容者番号で行うことを考えていたのです。
わたしは事実のために、名前を消すことを断念した。そして自分を晒け出す恥をのりこえ、勇気をふるって告白した。いわばわたし自身を売り渡したのだ(『夜と霧』池田香代子訳)
その意味で今週のかに座もまた、どうしたら行動と態度をもって人生の問いに応え、「自己を売り渡し」ていけるかがテーマとなっていきそうです。
かに座の今週のキーワード
私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。