かに座
男でも女でもなく人として
「共学社会」の中で
今週のかに座は、女子高出身者のパーソナリティーのごとし。あるいは、より大胆に、図々しくなっていこうとするような星回り。
日本社会はまだまだ男性中心主義が闊歩している社会ですが、その原型は共学の学校社会にあるように思います。すなわち、共学ではどうしても男子のほうに力があり、女子の方がサブ的な立場になるため、女はどうしてもその中で上手に立ち回ることを考えがちな訳ですが、一方でそれが女子校となると、まるで違う。
そこでは男の視線を通した「女」としてではなく、ただ女という性を持った「私」として存在しており、それはガサツだとか下品といった意味ではなく、フラットさがまるで違う。女子校に入ると、特にぶりっ子だとかあざといタイプでなくも無意識のうちに内面化されていた男目線や、それによって作られていた「女らしさ」が洗い落とされ、例えば、スカートの中に手を入れて足を掻いたり、服に手を入れてブラを直したりといったことも平気になっていく。
そういう環境でたとえ3年間だけでも過ごした人には、特有のパーソナリティーのようなものがあり、男だから、女だからという前に、ひとりの「人」でいるという感覚が必ずどこかに潜んでいる。
そして、共学社会のおかしさが糾弾されつつある今だからこそ、そうしたフラットな感覚からモノを見たり、言葉を発することのできる人がますます貴重になってきつつあるのではないでしょうか。
25日にかに座から数えて「再誕」を意味する5番目のさそり座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、より力強く自分らしさを打ち出していく上でも、そうした女子高出身者に特有のパーソナリティーや感覚のようなものを改めて思い出していきたいところです。
スーパーフラット!
平安時代以降のやまと絵に見られるような、天井を描かず、斜め上空から室内の登場人物や彼らが織りなす出来事をのぞき見ているかのように描く方法を「吹抜屋台技法」と呼ぶそうです。
この技法で描かれた絵巻物を右から左に見ていくと、視線が空間の中をどこまでもフラットに水平移動していくのですが、次第にこうしたパースペクティブのあり方こそが、日本の物語性を成立させていたのだということが分かってきます。
つまり、始まりも終わりも曖昧で、どこからでも話を始められる。そこにはバーチャルとリアルとが混在しながら同じ平面に存在していて、富める者と貧しい者、生者と死者、あるものとありつつあるものとが一緒になって踊っていく。それが日本的な「現世(うつしよ)」観であり、この場合の「うつ」は移動の「移」であり、写真の「写」であり、映像の「映」でもある訳です。
これは客観視とか俯瞰というのとも違っていて、この角度から見ていくとひとりひとりの人間を「人」として見ることができるよ、という一種の「見立て」であり、俳句や和歌や盆栽や庭も、そこから生まれてきているのではないでしょうか。
今週のかに座もまた、みずからの人生をたえず移ろい続ける絵巻物に見立てていくことで、無意識的に内面化していた視線をザラザラと洗い落していくことができるはず。
かに座の今週のキーワード
まなざしを研ぎ澄ます