おひつじ座
息のつながりに生かされて
一遍の一呼吸
今週のおひつじ座は、「身を観ずれば水の泡」という一遍の和讃のごとし。あるいは、確固としたおのれを解体し、いきいきとしたネットワークの中に投じていくような星回り。
おうし座へ抜けていく太陽と入れ替わるように、水星に続いて金星もおひつじ座入りしていく今週は、まだまだ力みが残っている心身をより軽やかにして、すーっとこの世界へ開かれていきたいところ。
こうした「わが身をいきいきと」ということを想う時、何よりもまず先に浮かんでくるのが冒頭の一節です。これは一遍上人が残した八十六句からなる和讃(漢語のお経を日本語に翻訳した仏教歌謡)の第一句であり、第四句までは以下のように続いていきます。
「消えぬる後は人もなし 命おもへば月の影 出で入る息にぞとゞまらぬ」
仏教詩人の坂村真民氏の解釈に従って書き下すと、
「この身をよく見てごらん、それは水の泡のようなものだ。泡はすぐ消える、人も同じだ。この命を思うてごらん、それは月の光のようなものだ。出る息入る息のほんのわずかな間も、じっととどまっていることはないのだ」
となります。
一遍にとってこの身を以って生きるとは、すなわち一呼吸ごとに命をかけることであり、その意味で念仏とは入る(吸う)息でみ仏とつながり、出る(吐く)息でこの身を仏にしていくための手段であったのでしょう。
今週のおひつじ座のテーマもまた、自身の身命の無常そのものではなく、その奥にある目に見えないつながりの方へとチャンネルを合わせていくことにあるように思います。
息が合う瞬間を目指して
一遍における「仏」とは、あらゆる迷悟を超えて存在している永遠の生き仏としての「阿弥陀仏」のこと。
彼はおそらく“念仏”の一呼吸において、妄“念”のかたまりのごときわが身から、「一切の衆生救済」という願いを立てた無限の慈悲を持つ阿弥陀‟仏”まで、息をつうじて往還していたのでしょう。
もちろん、男女であれ人間と仏であれ、そのあいだに横たわる関係性の意義というのは、たった一度の邂逅では決して分かりっこありません。それは幾度ともなく繰り返される言葉や視線のやり取りを通じて、ようやく垣間見えてくるもの。
けれど、それが5度目なのか、7度目なのかは誰にも分かりませんし、大げさに愛だなんだと訴え立てればいいというものでもありません。
ただ、相手とのあいだに必ずあるズレやブレが、何かがカチリと回ることで解消されたり、かえって大きくなったりした末に、不意にドキリとするほど息が合って、何かが分かってしまう瞬間がくる。
そうした瞬間を目指しつつ、今週は一呼吸一呼吸に命をかけていきたいところです。
今週のキーワード
即心念仏