みずがめ座
目撃者か、参与者か
ロールモデルとしてのシュタイナー
今週のみずがめ座は、「個体主義」のやり直し。あるいは、「人間は情報化できる」という現代の神話に対して、自分なりの「否」を叩きつけていこうとするような星回り。
ここ20年あまりで、人間生活のあらゆる場面にコンピューターやAIが介入し、情報操作が行われるようになりましたが、金融政策にしても商品サービス開発にしても、すっかりコンピューターやAIに依存せざるを得なくなってしまった現代社会の状況について、思想家の高橋巖と舞踏家の笠井叡は、2人の対談の中で「今の時代ほど、人間が歴史に介入できなくなった時代はない」という風に言い表していました(『戦略としての人智学』)。
そうして、あまりにひとりひとりの人間の意志を超えたところで現実が動くようになってしまった背景には、「人間は(コンピューターで処理可能な)情報化できるのか?」という問題が潜んでいるのだと指摘していくのです。
例えば、人間の神経細胞の活動をすべて電気信号に変換してコンピューターの中にダウンロードする形で入り込むという研究をとりあげ、そうした自然科学に自分をいかに適用できているかという方向で自分自身を肯定していくこと、「これこそが現代の神話」であると述べた上で、その対極に「個体主義」を置いています。
個体主義とはつまり、人間というのはひとりひとりの個人の意志が歴史に関わっており、良いか悪いかは別にして、たとえ無意識であっても歴史を動かしているのだという立場で、そうして人間がふたたび歴史に対して受動的ではなく能動的に関わろうとするならば、それはコンピューターを通してではなく、個体主義の出発点である「意識の由来」や「思考の本性」からやり直さなければダメなんだということを話しているのです。
対談の中で、高橋巖はそうしたやり直しの先人として思想家のルドルフ・シュタイナーの名を挙げ、学問的な認識と内面的な信仰が別々に分けられていた近代の思想史の流れの中で、ただひとり「命を懸けて内面を表に出した」のがシュタイナーであり、その根本には「自己認識は神認識に通じる」というグノーシス主義的な自己認識(としての個体主義)があったのだとも言っています。
4月24日にみずがめ座から数えて「集合的ストーリー」を意味する10番目のさそり座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、個体主義のやり直しが自分の中にどれくらい生きているか、ということを改めて痛感していくことになるかも知れません。
或るアフリカ原住民の見た「鶏」
人間の知覚=精神の変容の歴史を扱ったマーシャル・マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成―』には、ある衛生監視員がアフリカ原住民の部落で、衛生上の処理の仕方を映像で見せることで伝えようとした際のエピソードが紹介されています。その映像は作業の様子をゆっくりと撮ったものだったのですが、
映画を原住民に見せ、彼らが何を見たかを尋ねますと、彼らは一羽の鶏を見たと答えました。しかし、私たちの方では映画に鶏が写っているということは知らなかったのです!そこで、私たちはこの鶏がどこに写っているのか調べるために、フィルムを一コマずつ注意深く見て行きました。すると果たして、一秒間、鶏が画面のすみを横切るのが写っていました。誰かにおどかされた鶏が飛び立って、画面の右下の方に入ってしまったのでした。これが原住民たちが見たすべてだったのです。
画面全体を見るというお約束を知らない原住民にとって、映画を見るという行為は画面の細かい部分のみに注目するということであり、同様に、彼らにとって病気は個人のからだの故障などではなく、生活を脅かす未知の顕われであり、個人の悩みである以前に、部族にとっての何らかの予兆であり、社会的な現象だったのです。
今週のみずがめ座もまた、集団的な現実を左右するような不安や因縁と何かとつながっていきやすいでしょう。
みずがめ座の今週のキーワード
社会的現象としての予兆