みずがめ座
魂として存在するということ
「色を失う」
今週のみずがめ座は、『夕紅葉(ゆうもみじ)色失ふを見つつあり』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、終わりの兆候に一つひとつ目をとめていこうとするような星回り。
紅葉に夕暮れが訪れる、その時間の経過の鑑賞へと読者をいざなう一句。晩秋の日暮れは日に日に足を速めていき、気が付くとあっという間にとっぷり闇に沈んでいるということが増えていきます。
掲句は「見つつあり」と、普段の日常においてならあえて言うことのない言葉をあえて発することによって、無意識のうちにやり過ごしてしまっている昼から夜への変化の過程を浮彫りにしようとしている訳です。
夕闇が濃くなるにつれ、色鮮やかな樹々の紅葉もしだいに色がくすみ、モノトーンへと近づいていく。それは書いてしまえば「色を失う」という短い一語で終わる話なのですが、実際には微妙な変化の積み重ねによって初めて成り立つ到達地点(ピーク)であり、それはどこか人間が死に向かいつつある時に、肉体の不調であったり、身辺を整理したくなったりと、少しずつさまざまな兆候を見せていくのとも似ています。
11月5日にみずがめ座から数えて「帰着点」を意味する7番目のしし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、関係性であれ実体であれ、目をとめるべき兆候をあらわし始めた対象をしかと見定めていくべし。
調和性の最小単位
17世紀の大哲学者ライプニッツが、かつての秘書であった数学者のクリスチャン・ワグナーから、「先生、いったい魂とは何でしょうか?」という質問に答えるべく送った手紙には次のような一節が書かれていました。
私は物質のうちにいたるところ付加されている能動的原理を認めるからこそ、物質を貫いていたるところに生命の原理、すなわち表象の原理が広がっていると考えます。これはモナドであり、いわば形而上学的アトムであって、部分をもたず、自然的には生じたり滅びたりすることのないものです。
ライプニッツの思想の中枢概念はこの「モナド(単子)」ですが、これは「アトム(原子)」に代わる物質の究極単位などではなく、あえて言うなら「存在を見るための単位」ということになるでしょう。
つまり、ライプニッツにとって存在するとは、部分が全体の調和に組み入れられ、部分が部分にふさわしい“居場所”を相互に見出し得ることを意味しており、そうした調和性や相互性が成立するときの最小の個別化の単位がモナドであり、それこそが魂の在り方に他ならないのだ、と。
今週のみずがめ座もまた、そうした「存在を見るための単位」としての役割をどれだけ果てしているのか、改めて自分の胸に問うてみるべし。
みずがめ座の今週のキーワード
微妙な変化の積み重ねを見届けていく