みずがめ座
祈りの受容
4番目の存在
今週のみずがめ座は、『三人とががんぼのゐる夜(よ)なりけり』(宮本佳世乃)という句のごとし。あるいは、欠けていたピースを埋めていこうとするような星回り。
「三人とががんぼのゐる」という表現が、なんとも余韻がのこる一句。夏の夜に仲間同士で部屋に集まって何やら語りあったりしているうちに、気付くと気配がひとり増えていて、振り返るとそこには蚊よりもはるかに大きく、長い脚をもつががんぼがいた。で、なんとなくこの「ががんぼ」というのは、死者のことなんじゃないかと思うのです。
その意味で、どことなく与謝蕪村の『四五人に月落ちかかるおどり哉』という句を思い起こさせるところもあります。
こちらの句は、盆踊りに興じている人らを描いた絵につけられた一句なのですが、その絵にはやはり3人しか人間が描かれていない。盆踊りというのは、もとは先祖の霊と向きあい、供養するための祭り/ 祀りでしたから、おそらく夜通し踊りに耽っているうちに、先祖の霊も踊りに加わって、作者はすこし曖昧に「四五人」と書いたのではないでしょうか。
数の感覚というのもあって、3という数字は男性、女性、子どもからなる家族の最小単位をなす三つ組みを象徴し、発展し上昇する運動をあらわす一方、4にいたって初めてそうした運動は「安定」の境地を見出すことができるのであって、この4番目の存在というのは、日本社会では古来より先祖や死者が担ってきたのです。
その意味で、26日にみずがめ座から数えて「共同体の原理」を意味する10番目のさそり座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、どうしたら現実にかけている「4番目の存在」を見出していくことができるかが問われていくことになるかも知れません。
負い目を引き受ける
ここで思い出されるのが、リルケの「立像の歌」という詩です。そこでは石像がわが身に「生命」の熱い血が脈打つことを望んだとき、みずからの「生命」を犠牲にして自分をよみがえらせてくれた誰かの存在に気付き、そんな誰かを思って泣くのです。
たいせつな生命をふりすててまで/わたしを愛してくれるのはだれだろう
だれかがわたしのために/海に溺れて死んでくれたなら
わたしは囚われた石からときはなたれ/生命のなかへ/よみがえることができるだろう
石はこんなにも静かだから/わたしはあたたかい血潮にあこがれ/生命を夢みている
ああ、だれか/わたしをめざめさせる/勇気をもつものはいないのだろうか
けれど、わたしが/生命のなかによみがえったなら/わたしは泣くだろう
わたしが捨て去った石を想って泣くだろう
純粋な贈与と呼ぶべきものは、例えば「自分へのご褒美」といったごまかしによっては決して与えられず、かならず「他者から受けとる」という形で実現されるのです。
今週のみずがめ座もまた、すでに受取ったものへの返礼として自身の営みを、改めて再定義していくことがテーマとなっていくでしょう。
みずがめ座の今週のキーワード
誰かの祈りをわが身に刻んでいくこと