みずがめ座
食べ歩きの必要
機能と不全のはざまで
今週のみずがめ座は、『世に棲む患者』の心得のごとし。あるいは、「完全な健康」などという発想を捨てていこうとするような星回り。
精神科医の中井久夫はかつてエッセイ『世に棲む患者』のなかで、「病気をとおりぬけた人が世に棲む上で大事なのは、その人間的魅力を摩耗させないように配慮しつつ治療することであるように思う」と書きましたが、私たちが困難な状況に陥ったとき、身近な人間関係において求めあうのは、まさにこうした配慮の実践なのではないでしょうか。
たとえば、先のエッセイにおいて、中井は治療者と患者とのあいだで陥りがちな固定観念で、元患者が世に棲む妨げになるものとして、大きく2つの傾向を挙げています。
「第一は、『治るとは働くことである』という哲学あるいは固定観念」であり、これは容易に逆転して「『働くと治ったことになる』という命題となって患者をあせらせる」が、そも患者は「治るという大仕事をしている」のであり、「ぶらぶら」しているくらいでちょうどいいのだと中井は言います。
「第二には、『健康人』とは、どんな仕事についても疲労、落胆、怠け心、失望、自棄などを知らず、いかなる対人関係も円滑にリードでき、相手の気持ちがすぐ察せられ、話題に困らないという命題」であり、これは「『完全治療』以外のものを治癒と認めない傾向」とも言い換えられています。
この2つをまとめるならば、世に棲む患者として生きたり、他の患者への配慮の上で大切なのは、(暇な時間などないと言わんばかりに)働くこと=正常ではないのだということ、そして、ほどほどに「病い」や「調子の悪さ」を抱えつつ生きることを受け入れていくこと、という風にも言えるのではないでしょうか。
その意味で、7月18日にみずがめ座から数えて「心身の調整」を意味する6番目のかに座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、「人間的魅力の摩耗」を防ぐという観点から自身の生活を見直していきたいところです。
魅力回復のとば口としての「食」
思い返してみると、病院や学校で出される「制度化された食事」というのは、往々にして「マズい食事」であったり、アレルギーの思い出として残っているものですが(今は違うのかも知れませんが)、今にして思えばそれこそが産業社会の味だったのかも知れません。
しかし、そうした体験が例外的なものであるということは、もっと目を向けるべき事柄なのではないでしょうか。というのも、西洋近代発のテクノロジーやインフラが、資本主義経済を回すシステムとして恐るべき強制力をもって私たちの日常に均質性をもたらしていく中、食という領域に関しては少なくともグローバル化の波を受けつつも、特殊な在り様を呈しているから。
すなわち、食にはそれを価値づける統一規格もなければ、原理化されたコードもなく、誰もが自分たちの味覚に合わせて改変可能であるがゆえに、いざ「なにがうまいか」という話になっても、その答えはどこまで行っても、行った先々でてんでばらばらであり、その意味で均質化からの逸脱に成功している、社会における稀少な領域なのだと言えます。
どんなにテクノロジーが発達しようとも、「食のイノベーション」というのは、それが「うまいもの」をもたらしてくれるのでなければ意味がないがゆえに、制度化や機械化が進みにくく、その良し悪しの基準はあくまで個人に委ねられている。大胆な言い方をすれば、「うまさ」の追求こそが、人間的ないし個人的魅力を担保してくれるのです。
その意味で、今週のみずがめ座もまた、自身の舌で感じた価値(うまさ)に歩調を合わせて、自身の日常の歩みを調整していくべし。
みずがめ座の今週のキーワード
「ぶらぶら」しているくらいでちょうどいい