みずがめ座
しあわせならもういい
誰もが「進化」という言葉の愛用者
今週のみずがめ座は、「進化」という訳語からの解放。あるいは、「進化論」という世間公認の価値体系の尻馬に安易にのっていくのをやめていこうとするような星回り。
デザインサイエンティストの梶川泰司は『宇宙エコロジー―バックミンスター・フラーの直観と美ー』のなかで、ダーウィンの進化論は、生物は進化するという仮定によってのみ合理的に説明できる事実を多数示すことによって、漸進的変化がおこったプロセスを説明しようとしてきたが、説明モデルとしては片手落ちであり、それは例えば「進化」という訳語にも現われていると述べています。
「進化」とは名詞「evolution」の訳語で「回転して外に出していく」の意ですが、「進化」以外にも「旋回」「放出」「発生」などの意味に分岐してきました。梶川は「進化、発展、展開evolution」の対概念は「退化、収縮、衰退devolution」などではなく(これはビデオの再生巻き戻しのような時間の反転に過ぎない)、「involution回転して内部に巻いていくこと」であり、この<巻き込みinvolve>は<展開evolve>と「相補的かつ動的な均衡を形成」し、それはある種のパターン、統合性のうちに認められるのだといいます。
統合性(パターン)は、竜巻がバイオスフィアの大気層における海洋と太陽熱との相互作用であるように、そして遺伝子DNAがねじれを描きながら編まれていく縄(ロープ)のように、システマティックに互いに二重以上の螺旋を形成させる知的複合体なのである。<展開evolution>は、人類を除いた分離したシステムの変化として考察できない。<展開evolution>とは、人類の宇宙的な段階と方向であり、宇宙の中のひとつの機能である。
つまり、こうした機能をダーウィン的な進化の理論、すなわち自然淘汰や適者生存が説明できないのは、竜巻であれば<放出evolution>と<吸引involution>とを非同時的ながら共存させることができている「動的な相補性」を、連続的変化の過程のうちに取り込むことができていないからということなのでしょう。
梶川はさらに、本当に大切なのは人間が進化しているかしていないかなどではなく、まずは「進化」という機能を「不可逆的な形態論の誤謬(ごびゅう)から、そして「進化」という19世紀の言語の迷妄から解放」していくことなのだと喝破しています。
6月11日にみずがめ座から数えて「集団幻想」を意味する12番目のやぎ座へと「死と再生」を司る冥王星が戻っていく今週のあなたもまた、既存の目的論的な「進化論」から抜け出たところで人類の宇宙的な段階と方向に歩調を合わせていきたいところです。
目的論の無効化
もちろん、人間は一種の動物でありながら、目的なしには生きられないです。それどころか、進化の原理であれ日々の仕事であれ、何事においても目的があるかのように振る舞いたがる強固な習性のようなものがある。
例えば、そうした習性を逆に利用されてしまっているのが「労働」の現場でしょう。日本社会は労働というものをやたらとありがたがるところがありますし、お国のためとか、家族のためとか、老後のためとか、いかにも正しそうな「目的」をこれまでやたらと盛り込まれ過ぎてきたように思います。
しかし、ただ生存していることが、それ自体では罪であるかのように考えるのはあくまでキリスト教の得意技であって、むしろ人類史的には「労働とは一種の屈辱である」と考えたり、ぶら下げられた「目的」から解き放たれ、それ自体で価値のある時間こそが生活の中心である、と考えられてきた期間や地域だってあったはず。
その意味で、今週のみずがめ座もまた、生きているということそれ自体がとても幸せで、満ち足りている状態なのだという気付きへと立ち返っていきたいところです。
みずがめ座の今週のキーワード
involution中心に戻っていくこと