みずがめ座
顔と粘菌と私
ダイナミックな存在としての顔
今週のみずがめ座は、着想としての観相術のごとし。あるいは、裏づけのないこじつけに思いきり乗っかっていこうとするような星回り。
いくら人相占い師の見識に懐疑的であったとしても、小説の登場人物の顔かたちや表情の変化にまつわる記述を読み飛ばす人はまずいないように、私たちは個人差こそあれど外見と内面とが何らかの仕方で関係しあっていることをどこかで信じているように思います。
そして、しばしば観想術は統計学に近い性格をもった知識と経験の集積なのだという説明を見聞きすることがありますが、これはもっともらしいまやかしに他なりません。観想術は単なる帰納法的な知に過ぎないというより、私たちの経験に照らして納得のいくような平易さを保ちつつも、宇宙の秘密とリンクした「真実」として顔を読み解かんとする演繹的な試みであり、だからこそその胡散臭くも妖しい魅力で私たちを惹きつけてやまないのでしょう。
例えば、曽川和翁の『八門人相事典』という本には、顔が周期的にねじれるという驚くべき説が唱えられています。いわく、「人相は時間と環境でつねに変化しますが、じつは人間の顔は時期と周期ごとに、鼻の「山根」を中心点として、左右いずれかにねじれて回転している」のだそうで、左右のねじれは太陰暦に基づく厄年ごとに入れ替わるのだそう。得てして静的で動かないものと捉えがちな顔も、大陸プレートのように移動するばかりでなく、太陽系や星雲のように渦を巻いて動き続けているダイナミックなものなのだという曽川翁の説には、奇想特有の突き抜けた爽快さを感じずにはいられません。
同様に、11月30日にみずがめ座から数えて「実感」を意味する2番目のうお座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、客観的な「正しさ」などいったん脇において、自分ができるだけワクワクするような見立てをひねり出していきたいところです。
逆説としての粘菌
例えば、天才的な博物学者・民俗学者であった南方熊楠(1867~1941)が半生をかけて研究をしたことで知られる粘菌は、植物にも動物にも属さない原生生物(ゾウリムシやアメーバ)とされています。
熊楠が粘菌を研究するようになったのは、生命体やその生き死にの本質についてヒントが得られるかも知れないということが動機にあったのだそうですが、実際、粘菌はふつうに聞けば首をかしげざるを得ないような在り方をしています。
すなわち、粘菌が変形体としてある時は、人間の目からはまるで吐き出したガムのようなつまらない半流動体のように見えますが、微生物などを捕食して成長する動物のような状態にあり、やがて栄養補充が困難になると、今度は全体が湧き上がって胞子状になります。
この時、人間の目からはキノコのように見えるため、「粘菌が生えた」ということになる訳ですが、変形体としてはこの時に死んでいる訳ですが、その胞子がはじけて種子のように地上に飛散していくと、今度はまた変形体として生き返って活動を開始するのです。
つまり、人間の側からは生に見える状態は粘菌にとって死であり、人間の側から見た死が粘菌にとっては生に他ならない。そんな逆説を粘菌は現に生きているんですね。
今週のみずがめ座もまた、「食うために働く」といった人間的な理屈を少しでもひっくり返していくことで、運命に翻弄されるのではなく不思議に生かされる道をたどっていくことがテーマとなっていくでしょう。
みずがめ座の今週のキーワード
胡散臭くも妖しい魅力を放つほうへ