みずがめ座
黒子をはさむ
捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
今週のみずがめ座は、『熱燗の夫にも捨てし夢あらむ』(西村和子)という句のごとし。あるいは、くすぶっていた思いが一気に増幅されていくような星回り。
作者が結婚後8年ほどした頃の作。24歳で結婚した作者は、充実した日々を過ごす一方で、2人目の子供が生まれてからは好きな俳句も辞めなければならないのではないかと悩んだほど多忙を極めていたそうです。
そんなある夜、仕事から帰ってきた夫が、いつものように晩酌を始める。微笑みながら杯を傾ける夫の横顔を見ているうちに、不意に心の中でつぶやかれた言葉がそのまま五七五にのって句になったのでしょう。
特別何かを口にすることなく、穏やかに晩酌している夫にも、もしかしたら自分の知らない夢があって、けれども自分の知らないところで捨てたがゆえに、今の生活があるのかも知れない。
そんなつぶやきは、単に夫を思いやる妻の優しさからではなく、ひとりの人間として「これでよかったのか」という後ろめたさが少なからず自分の中にくすぶっていたがゆえに湧いてきたものでもあったはず。
その意味で、11月8日にみずがめ座から数えて「心の奥底」を意味する4番目のおうし座で皆既月食を迎えていく今週のあなたもまた、知らず知らず抱いていた思いや念を後追いする形で、同じ時空を生きている者同士の深い共感を体験していけるかも知れません。
語り尽くさないことで多くを語ること
歌舞伎や人形浄瑠璃の江戸時代最大の劇作家・近松門左衛門は、『難波土産』(1738)の中で「芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜のあいだにあるものなり」「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、このあいだに慰みがあるものなり」と書きました。
つまり、あまりに直接的な事実だったり、余りにでたらめなウソばかりでは、人の胸には真実らしさとして迫ってこなければ、リアリティもない。虚と実との微妙な“あわい”にあって、起伏をつくり、その境界をあいまいにすることによって初めて、一抹の真実を含んだ芸術となり得るのだと説いた訳です。
それを体現している装置が、例えば人形浄瑠璃における「黒子(くろこ)」です。慣れないうちは気になりますが、やがて見慣れてくるにつれ、むしろ黒子によって人形に命が吹き込まれ、その演技がこちらの想像力を増幅させることに気が付いてくるはず。
この表現法について、江戸の文学と文化を専門とする元田與一は、「近松は『あはれなり』と書くだけで、あわれさが醸しだされると考えることの愚かさを力説」し、「描き尽くさないこと、演じ尽くさないことによって、逆に多くを語りだそう」としているのだと述べています(『日本的エロティシズムの眺望』)。
その意味で、今週のみずがめ座もまた、今の自分に足りないのが虚なのか実なのか、はたまたそのバランスにあるのかということについて、改めて考えてみるといいでしょう。
みずがめ座の今週のキーワード
難しさと楽しみのせめぎあい