みずがめ座
身をよじるような試み
無名の者の技芸
今週のみずがめ座は、セルトーの「戦術」のごとし。あるいは、合理的・科学的な近代的な学知の領域からは見落とされた日常的実践を評価し、試みていこうとするような星回り。
歴史家のミシェル・ド・セルトーは、社会全体が権力の思惑通りに動かないように出来ている理由として、日常性の細部には監視の編み目のなかにとらわれながらも、その構造の働き方をうまくそらし、ついには反規律の網の目を形成していくような策略と手続きが潜んでいると述べています(『日常的実践のポイエティーク』)。
セルトーはそうした名もなき民衆の知恵や実践を、自分の土俵をもっていて、主体と客体のあいだに明確な境界線を引けるような状況での実践として定義される“戦略”と対置する形で、“戦術”と呼びました。すなわち、どこまでも他人の土俵(アウェイ)において、みずからに固有の領域を持てない弱者が、強者のものを横領し、「なんとかやっていく」狡知こそが、ふつうの人びとの「もののやり方」なのだ、と。
そして、権力とは社会の網の目の全体を管理する独裁者に宿るのでもなければ、それから逃れられる絶対的外部がある訳ではなく、至るところにあり、至るところから生じるものであるからこそ、そうした「戦術」(読むこと、言い回し、歩き方、料理すること、職場での隠れ作業etc)をどれだけ実践していけるかが「なんとかやっていく」上で重要になってくる訳です。
25日にみずがめ座から数えて「権力との関わり方」を意味する10番目のさそり座で下弦の月を迎えて行く今週のあなたもまた、そうした押し付けられた秩序を相手取った、文字通り身をよじるような試みの大切さをしみじみと実感していくことができるはず。
破格の文体
フランスの思想家バタイユは、人間は他の動物と違い、禁止を侵犯すること自体が欲望の対象となりえる動物であり、それこそがエロティシズムの条件だと考えました。つまり、「やっちゃいけないとされてきたことをする」から、自分の土俵ではなくてもなんとかやってこれたのだ、と。
例えば、20世紀のフランスの作家セリーヌは、パリの貧民街で開業医をしている主人公バルダミュが全世界の欺瞞と愚劣に徹底的に呪詛と悪罵をはき続ける独白スタイルの小説『夜の果てへの旅』を、それまでもっぱら文語体で書かれてきた小説に、口語体と俗語を持ち込むことで、賛否にわかれたものの一世を風靡しました。
いわば、文学に口語を侵入させたのです。それは新たな文体の発明であり、話自体もとんでもなく面白いものでしたが、やはり語り口に少なからず引き揚げられていたのではないでしょうか。そして、彼が自身の小説について「文学の本ではない、人生の本だ」と言っていたことも、今週のみずがめ座のために忘れずに記しておきたいと思います。
みずがめ座の今週のキーワード
もっともらしい戦略よりも小賢しい戦術を