みずがめ座
“弱き存在”としての自覚
伊藤亜紗の「植物の時間」
今週のみずがめ座は、「植物の時間」のごとし。あるいは、「人間的な規格」という前提を外したところで、偶然性や無駄のもたらす可能性を見出していこうとするような星回り。
私たちは、社会の行く末を考えるにも、人生の未来を計画するにも、ついつい「人間的な規格」という前提に基づいて考えてしまう傾向がありますが、現在のようなコロナ禍はそうした発想そのものの機能不全をもたらしているように思います。
その点、『ひび割れた日常』というリレーエッセイ集に寄稿された伊藤亜紗の「植物の時間」というエッセイの中に、次のような印象的なくだりがありました。
先日、同僚の植物学者がしみじみ語っていた言葉に衝撃を受けた。「植物には、なぜそんなことをしているのか分からないことがいっぱいある」。要するに、人間の目からすれば無駄にしか見えないことが、植物にはいっぱいあるのだ。(中略)植物は自分で環境を選べないから、変化に対応できるように可能性をたくさん用意している、ということなのだろうか。いや、それもたぶん人間の目から見た見方だ、とその同僚は諫める。人間はつい、あらゆることに合理的な意味があると考えてしまう。でも、たぶん自然はそんな風にはできていない。
8月30日にみずがめ座から数えて「生命力の賦活」を意味する5番目のふたご座で形成される下弦の月から始まる今週のあなたもまた、ごく身近な未知としての植物や身体にこそ、豊かさのヒントを見出してみるといいでしょう。
泉鏡花の『夜叉ヵ池』
泉鏡花がはじめて書いた戯曲であるこの話では、異界と地上世界とが同一空間においてうすい‟皮膜”に隔てられつつ存在しているのですが、あるきっかけをもとに両者が接触し、地上世界は大変なことになっていきます。
度重なる水害を終息させるため、近くの山中にある夜叉ヶ池に水神を封じ込めたという歴史をもつある村では、毎日昼夜に三度鐘を鳴らさなければならない決まりになっていたのですが、我欲のために村人たちがこの約束を無視するや、背信に起こった水神が池の堰をきって村中を洪水の底に沈めてしまうのです。
この話の主人公はある意味で「倫理」であり、その象徴としての皮膜であると言っていいでしょう。人間たちの倫理性が破綻すれば、皮膜は突き破られて異界の存在である水神などの自然精霊が美しくも残酷な裁きをくだすのみ。
そこでは人間は、主人公たる倫理のつねに傍らにありながらも、どこかで疎ましく思っていたリ、ひょんなことから裏切ってしまう‟弱き存在”なのです。
今週のみずがめ座もまた、自分の中にまだまだ潜んでいる弱さや人間味というものを、否が応でもあぶり出されていくことでしょう。
みずがめ座の今週のキーワード
自然にたいする畏怖と賛嘆の両極性感情