みずがめ座
何かがおかしいはたいてい正しい
度重なる「あれだ」の原点
今週のみずがめ座は、土俵際の巴投げの記憶をさぐる加藤典洋のごとし。あるいは、面倒で不安な作業にこそ打ち込んでいこうとするような星回り。
文芸評論家の加藤典洋は日本の戦後問題を論じた『敗戦後論』のまえがきで、小学校の遠足で別の小学校の集団と遭遇した際、両校から代表者が出て相撲を取ることになった話について、記憶をたどりながら書いていました。
わたし達の学校の代表が土俵際につめられ、踏ん張り、こらえきれずに腰を落とした、と、うまい具合に足が相手の腹にかかり、それが巴投げになった。そのとたんに、何が起こったか。わたし達の学校の生徒が一斉に拍手してはやし立てた。一瞬のできごとだった。相撲は柔道に代わったのである。
その後の結末については覚えていないのだそう。ただ、「一瞬、あっと思い、次の瞬間他の生徒と一緒に拍手した、その時のうしろめたさを忘れられない」のだと言い、のちに
1945年8月15日のことを、著者は実際には経験していないものの、後で勉強して「あれだ」と思ったのだと述べています。
つまり、敗戦国日本の戦後はどこか「さかさま」であり、その中核に「ねじれ」を抱えて存立している社会であるにも関わらず、その「ねじれ」が「ねじれ」としてすら受け止められていないという点に、著者は違和感を表明せざるを得なかった訳です。
12日にみずがめ座から数えて「現実の土台/基盤」を意味する4番目のおうし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、自分が依って立っていると思っていた現実の歪みやねじれに改めて目を向けていくべし。
有害な仕事と闘うために
哲学者のバートランド・ラッセルは、「幸福をもたらすもの」というエッセイのなかで「この世の有益な仕事の半分は、有害な仕事と闘うことから成りたっている」という極めてリアリストらしい醒めた意見を披露していますが、一方で私心や下心のない好奇心を持つことの大切さについても強く説いています。
いわく、人は自分の利害に関係のあることだけに熱中し、それが人間の活動全体のうちでいかに微々たるものかを忘れがちであると指摘した上で、「知識を身につける機会があれば、たとえ不完全なものでも無視するのは、劇場へ行って芝居を観ないのと同じだ」と述べるのです。
確かにこの世界は、悲劇的かつ喜劇的であるばかりでなく、奇怪な、また不思議な物事に充ちており、「世界の提供するこの壮大なスペクタクルに興味を持てない人びとは、人生の差し出す特典の一つを失っている」のかも知れません。
今週のみずがめ座もまた、そんなラッセルの助言に従って、差し当って自分の利害に直結しないだろう物事や知識へ積極的に手を伸ばしてみるといいでしょう。
今週のキーワード
ねじれをねじれとして受け止める