みずがめ座
受け継がれゆく灯り
有機的であるということ
今週のみずがめ座の星回りは、「木守柿万古へ有機灯りなれ」(志賀康)という句のよう。あるいは、霊感に満ちた話で生徒を魅了していく教師のごとし。
「木守柿(こもりがき)」とは、柿の実をもぐ際、来年の柿の豊作を願って、先端の方の柿をひとつだけ実をつけたまま残しておくというまじないのこと。掲句は、それが永久に変わらずに有機的な灯りをともしていてほしいと願っているのです。
灯りというと、どうしても今の社会では人工的で無機質なワンタッチで点灯してくれるような便利な照明装置を想像してしまいますが、夕日に輝く木守柿はそうしたものとは異なる、在りし日の「有機」物質による「灯り」なのだと言えます。
どんなにささやかで、根拠の薄弱なまじないであろうとも、そうした灯りこそ、長きにわたり人の暮らしの傍らにあって、人々を励ましてきたのだということを忘れてはなりません。
そして今週のみずがめ座にとって、そんな「木守柿」の灯りこそ自身のあるべき姿を指し示しているのだと言えます。
特に、人が人に影響を及ぼしていく場においては、やはり伝え方にどれだけ温度や手触りが残っているかという、有機的な要素が大切になってくるはずです。
シュバイツァー博士の場合
キリスト教の神学者であり、音楽家であり、後に医師としてアフリカに渡り現地人に奉仕したシュバイツァー博士は、その自伝の中で次のように述べています。曰く、
「誰の人生にも、あるとき、内なる炎が消えるときがやってくる。そして消えた炎は、別の人間との出会いによって、また突然燃え上がる。わたしたちは皆、精神をよみがえらせてくれる人々に、感謝するべき」
もしこの金言に恐れを多くも何か付けくわえるなら、感謝するときには、酒の一杯でもおごることも忘れずに、というくらいでしょうか。
ここで大切なことは、あなたがおごるのとおごられるのとで、どちらの側となるかはともかく、根本的なところでは両者は大した違いはないのだということ。
ともった灯りというのは、いつだって「もう一人の自分」とのあいだに友情が成立した合図に他ならず、教師と教え子の関係というのも、本来そういうものなのではないでしょうか。
今週のキーワード
手触りと温度感