みずがめ座
自分さえも方便であるということ
身のほどを知っていた人
今週のみずがめ座は、さながら自身の身の程を弁え目的に進んでいった世阿弥のごとし。あるいは、身を売る行為を「方便」として使いこなしていこうとするような星回り。
いよいよ本格的に春がやってきましたが、みずがめ座の人たちにとって、この春は「これまで禁じてきたことを自分に許可する」という流れがやってくるように思います。
それはより高みへと駆け上がっていくために是非とも必要なプロセスなのですが、その上で世阿弥という人物は大いに参考になるはずです。
白洲正子は『お能』の中で、能の大成者である世阿弥の芸術家としての天才性について十二分に認めた上で、「芸術家として「してはならないこと」を方便として使いこなせた人が世阿弥であります」と述べました。
この世阿弥がした「してはならないこと」とは、すなわち「色」を使うこと。白洲正子は「もし世阿弥が美しい少年でなかったとしたら、お能はいつまでたっても浮かびあがれなかったかも知れない」とまで書いています。
つまり、将軍(権力者)への身売り行為ですね。
周囲からのさげすみを受けながら、世阿弥が平然とそういうことができたのは、乞食の技とされた能の専門家として、世阿弥が「身のほど」を肝に銘じて知っていた人だったからなのだと、彼女は結論づけています。
今週はそんな世阿弥を鑑みた上で、現在の自分との距離感を測ってみるといいでしょう。
世阿弥の強さ
もちろん、世阿弥にも方便を使わざるを得なかった悲しみはあったでしょう。けれど千利休のようにそれに押し潰されなかった。
身売りや世渡りを「方便」として割りきることができた理由について、白洲正子は「精神的にも肉体的にもつよかった」からに違いないと言っていますが、これは案外核心をついているように思います。
それは裏返せば、たえず自己を刷新していく免疫機能のごとく、新陳代謝を怠らないということでもあるかもしれません。
時代や権力者という外界の情報の変化とともに刻々と自己の姿や関係性を書き換え続けていく。それが「つよい」ということの内実であり、そこでは自分自身もまた能のための方便と見なしていたのではないでしょうか。
世阿弥のように、どこまで自分さえも方便と見なしていくことができるか。今週はひとつこの点を基準にしてみるといいかもしれません。
今週のキーワード
免疫と自己創出