うお座
偶然人生
未完の味こそが
今週のうお座は、重たいテーマの作品構成の妙のごとし。あるいは、実際の人生と同じように、自身の生活も適度に支離滅裂となるよう構成し直していくような星回り。
書き手と主題となる人物という2人の人間の生き様が交錯することになる評伝というジャンルは、語り口や雰囲気が重苦しいものになりがちですが、時に例外も生まれます。
老フランス作家ロジェ・グルニエによるロシアの文豪チェーホフの評伝『チェーホフの感じ』は、あるときはほんの数行で終わるほど短い断章ばかりで編まれた一風変わったつくりなのですが、読み進めるうちにそれは著者が投げかける「チェーホフは人間を愛していたのか?」というテーマの重苦しさから読者を少しでも解放するための工夫なのだということが次第に分かってくるように出来ているのです。
例えば、『ワーニャ伯父さん』のなかで作者を代弁する医師アーストロフは、「献身的に伝染病の治療に当たり、手術をおこない、休む暇なく方々をかけ回」っていたにも関わらず、その口癖は「私は人間を愛していない」だったとグルニエは指摘した上で、女性との交際などで支離滅裂だったチェーホフ本人について、「とにかく言えることは、ギロチンの刃のように鋭くあろうとする高徳の士よりも、かずかずの弱みを抱えた人間の側につく」のが彼だったし、作家というのはそれくらいでちょうどいいのだとして、次のように述べています。
(そのために)各瞬間が失敗であるように見える。そしてそうした瞬間の連続の最後に残るのは<果たされなかった>という印象である。この未完の味こそが真のテーマなのだ。
5月1日にうお座から数えて「引き算の調整」を意味する12番目のみずがめ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ある種の軽やかさや、余白、抜け感をいかに自身の人生や生活にもたらしていくことができるかが問われていきそうです。
「部分」にこだわる
おおざっぱに東西の文学における違いを鑑みるに、西洋では長大で、立派な構築物が好まれ、小品よりも大作の方が評価が高い傾向がありますが、日本では逆に短いもの、小さなもの、地味なものが好まれ、それが端的に現われたものが随筆でしょう。
方丈記にしろ徒然草にしろ枕草子にしろ、そこにあるのはてんでばらばらな話題の寄せ集めで、そこには全体を律するプランというものはありません。西洋のエッセイは形式こそ自由ですが、ゆるやかにせよ建築的なプラン(全体の構図)はしっかりとあり、こういうものを読みなれた西洋人が日本の随筆を読んだら、そのずさんさと統一感のなさに唖然としてしまうかも知れません。
なぜこうした違いが出てきてしまうのか。それは日本人が「部分」あってこその「全体」という考えやこだわりが強く、ほとんど「全体」など眼中にないからでしょう。「全体」はあくまで後からついてくるものであり、偶然的なものの結果でしかないのです。
フランス文学者の野内良三はこうした日本特有の随筆や和歌、俳句などを「部分の芸術」と呼びましたが、「今ここ」が問題となる偶然性においては、自然と「在ることの可能性が小さいもの」に注目するスタンスが大事になってくる訳ですが、先のグルニエ評伝やチェーホフ作品は、西洋における例外的な「部分の芸術」なのだとも言えるかもしれません。
今週のうお座もまた、そうした「部分の芸術」に見られる、ミクロの視点をこそ改めて大切にしていきたいところです。
うお座の今週のキーワード
「部分」あってこその「全体」