おひつじ座
1つでも2つでもない何か
古い仲間関係のよき事例
今週のおひつじ座は、『此巨犬幾人雪に救ひけむ』(石島雉子郎)という句のごとし。あるいは、同一性がもたらす危険な混乱状態から脱していこうとするような星回り。
豪雪地帯のある北国では雪の中に埋まった人を探し出すのに、よく犬を使うことがありますが、作者はちょうど雪国で1匹の大きな犬を見かけ、この大きな犬はこれまで幾人もの人間を雪の中から救い出してきたのだろうと思わず見惚れたと同時に、獣が人を救うという事実に感嘆ないし圧倒されたのでしょう。
確かに人間と犬の関係性の歴史を振り返ってみると、掲句のように人間の犬に対する認識は一方的に愛玩的な存在であったり、運搬・護衛・狩猟など具体的なメリットをもたらす存在であったりといった、すごく単純なものではなかったことが分かります。
例えば、アラスカの先住民社会では、動物でありながら人間と生活圏を同じくする犬は霊的にアンビバレントな立ち位置に置かれており、犬同士が人間同士のように意思疎通する奇妙な行動をとる時は疫病の前兆とされたり、犬が子どものような鳴き方をするときは集落に死が近づいている証拠と見なされる一方で、その犬を殺すことでそれらの災厄を退けることができると考えられていました。
つまり、歴史的に犬は病気や死を感知して予言したりそれを回避する力があるものと見なされてきたわけですが、そこでは犬と人間は同一の存在でも、まったく異なる別個の存在でもなく、同一性と差異性のあいだでつねに動的に揺れている間柄として考えられていたことが分かります。
同様に、1月29日におひつじ座から数えて「仲間」を意味する11番目のみずがめ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、こうした「1つでも2つでもない何か」として何とかうまくともに生きていけるような間柄こそ大事にしていきたいところです。
中世の念仏結社「二十五三昧会」
平安中期、都が陰謀によって死に追いやられた早良親王(桓武天皇の弟)たちの亡霊につきまとわれていた頃、源信の『往生要集』がきっかけとなり貴族のあいだで個人の死後のことが大きな問題となっていきました。
一箱の肉体はまったく苦である。貪り耽ってはならない。四方から山が迫ってきて逃げるところがないのに、人びとは貪愛(とんあい)によって覆われ、深く色・声・香・味・触の欲望に執着している。永遠でないのに永遠に続くと思い、楽しみでないのに楽しみと思っている。(中略)まして刀山・火湯の地獄がそこに迫っている。
霊魂は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を輪廻するという死生観は、その後絵画や説教などを通して日本人のあいだに広く定着していきましたが、現世への執着を捨て、心乱すことなく臨終を迎えることで浄土に往生するという浄土教の教えは当時の人びとにとって決して観念的なものではなく、きわめて現実的なものだったのです。
そして、ここで注目すべきは源信自身が指導者となって結成された「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」です。極楽往生を目指すという目的で集まった25人で「善友」の契りを結び、互いの念仏行を助け合いながら立派に臨終を迎えていくべく、毎月15日に共に念仏三昧を修したのだとか。
彼らは、それまで輪廻してきた過去世であったり、この世の境遇においてはバラバラであっても、最終的には同じ極楽へ行き着くであろうという意味で、やはり「1つでも2つでもない何か」であった訳です。
今週のおひつじ座もまた、自身の願いを遂げるために互いに助け合えるような結びつきを少しでもたぐり寄せていくべし。
おひつじ座の今週のキーワード
永遠でないのに永遠に続くと思い、楽しみでないのに楽しみと思っている。