おとめ座
うわべをかなぐり捨ててこそ
ギフトの流れ
今週のおとめ座は、『火の映る胸の釦やクリスマス』(藺草慶子)という句のごとし。あるいは、イノセントな抵抗をひそかに試みていこうとするような星回り。
暖炉の火だろうか、ロウソクの火だろうか。いずれにせよ、薄暗い室内の中でゆらめくように燃えている火の様子が、胸の釦(ぼたん)に映っているのだという。火の周りでは、2人か、せいぜい3、4人の人間がおごそかな雰囲気を分かちあっているはず。
なんとなく釦の主が胸の内に秘めている情念がそのまま映し出されているような気がしてしまうのは、やはりクリスマスが日常の延長とは一線を画した特別な日取りだからだろうか。
そうすると、この句は「ギフト」というものが、私たちにどのように訪れるかを描いた一句という風にも読める。すなわちそれは、明るく明晰な知性が目を見開くことで見えてくるものでも、確かな根拠や判断基準に基づいて分配されるものでもなく、むしろそうした近代的社会における“よき大人”のモードになればなるほど見えなくなってしまうものなのではないか。
サンタクロースが子供たちが寝静まった夜のうちに、ありふれた靴下のなかにプレゼントをこっそりと入れてくれるように、ギフトというのは本質的に特別な才能の持ち主や優秀な人材などにではなく、ごく普通の人間の素朴な心にこそ訪れるものなのだ。
その意味で、先の「胸の釦に映る火」は“秘めた情念”の現れというより、“隠れた祈り”や“イノセンス(無垢さ)”の現れとして解釈した方がより真実に近いかも知れない。
12月23日におとめ座から数えて「実存」を意味する2番目のてんびん座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、かつてサンタクロースの存在を信じていたような素朴な心情へと立ち戻っていきたいところです。
女児のこころ
江戸後期の国学者である本居宣長は、『紫文要領』という著作において当時は諸説あって定かではなかった源氏物語の作者・紫式部や、物語の内容について「もののあはれ」の観点から論じているのですが、その中で光源氏ら物語の男たちが「何事にも心弱く未練にして、男らしくきつとしたる事はなく、ただ物はかなくしどけなく愚か」で、「其の心ばへ女童のごとく」ではないかと指摘した上で、みずから次のように答えています。
おおよそ人の本当の心というものは、女児のように未練で愚かなものである。男らしく確固として賢明なのは、本当の心ではない。それはうわべを繕い飾ったものである。本当の心の底を探ってみれば、どれほど賢い人もみな女児と変わらない。それを恥じて隠すか隠さないかの違いだけである。
潔さだとか気前の良さなど「男らしさ」とされている心持ちの在り様は、うわべを飾っているだけで「本当の心(実の情)」ではなく、女童のごとき愚かさや未練を伴ったカオスこそが人間の本質であるという宣長の洞察は驚くべき先見性を備えているように思います。
今週のおとめ座もまた、改めて人間の本質たる女性(女児のさが)に立ち返っていくべく、頭から“はらわた”へと主導権を渡していくといいでしょう。
おとめ座の今週のキーワード
胸の釦に映る火