さそり座
“ふつう”をめぐるシャドーワーク
餅はどこで食べるべきか
今週のさそり座は、『ふつうの日ふつうのうぐひす餅の粉』(岡田一実)という句のごとし。あるいは、何気なくもたらされた「当たり前」に尊さを見出していくような星回り。
梅や桜が咲く時期に都会の公園や庭で鳴き始めたウグイスは、4月下旬になると平地から山地に移動する。掲句は、花見というより、どこかへ郊外の山地へハイキングにでも出かけた際に詠まれたものだろう。
日頃コンクリートのビルやアスファルトに取り囲まれているときには感じえなかった季節の移ろいが、少し遅れて体感されてきた。掲句からは、どこかそんな実感のうごめきが感じられる。
考えてみれば、「ふつうの日」が当たり前にやってくることも、「ふつうのうぐいす」が鳴いていることも、それを聞きながら草餅やわらび餅などを平和にぱくついていられることも、どれもありえて当然の当たり前ではないのだ、と。不意に「ふつう」であることのありがたみで胸が溢れてしまった。
同様に、28日にさそり座から数えて「ありふれた現実」を意味する10番目のしし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、自分がきっと最後に行き着くべき「ふつう」を垣間見ていくことができるかも知れない。
無名の者の技芸
歴史家のミシェル・ド・セルトーは、社会全体が権力の思惑通りに動かないように出来ている理由として、「ふつう」の人々の日常の細部には監視の目にとらわれながらも、その構造の働きをうまくそらし、ついには反規律の網の目を形成していくような策略と手続きが潜んでいるからなのだと述べていました(『日常的実践のポイエティーク』)。
セルトーはそうした名もなき民衆の知恵や実践を、自分の土俵をもっていて、主体と客体のあいだに明確な境界線を引けるような状況での実践として定義される“戦略”と対置する形で、“戦術”と呼びました。すなわち、どこまでも他人の土俵(アウェイ)で戦わざるを得ない、固有の領域を持てない弱者が、強者のもちものを横領し、「なんとかやっていく」狡知こそが、ふつうの人びとの「もののやり方」なのだ、と。
そして、権力とは社会の網の目の全体を管理する独裁者に宿るのでもなければ、それから逃れられる絶対的外部がある訳ではなく、至るところにあり、至るところから生じるものであるからこそ、そうした「戦術」(読むこと、言い回し、歩き方、料理すること、職場での隠れ作業etc)をどれだけありふれた日常において実践していけるかが「なんとかやっていく」上で重要になってくる訳です。
その意味で、今週のさそり座もまた、そうした「ふつう」を維持し、整理させていくためのささやかな戦術的実践の大切を、しみじみと実感していくことができるはず。
さそり座の今週のキーワード
「なんとかやっていく」狡知