いて座
愛し願うもの
秋風と蝶
今週のいて座は、「手を出せばすぐに引かれて秋の蝶」(高浜虚子)という句のごとし。すなわち、失われていくものの甘美な思い出に浸っていくような星回り。
作者67歳の秋に、幼くして死んだ孫娘を思い出して詠んだ一句。
こちらが手を出してやれば、黙ってその手に引かれて歩いていく。そんな様子だったのが、風に吹かれる秋の蝶のように、どこか遠いところへ引かれて行ってしまった。
あるいは、道すがら蝶を見かけたのかも知れません。そして、美しく、はかない蝶に、在りし日の孫娘の魂を見出した気がしたのでしょう。
どこまでも淡い句ですが、そこには一度は失われたものも自然の中を経めぐり、また違うかたちで眼前に現れるはずという、どこか力強い思想の影が差しているようにも思えます。
逆に言えば、思想や哲学というものは、そうした喪失や痛みを通すことで初めて切実さを持って追求されていくものなのかも知れません。
10日にいて座から数えて「残された側の変容」を意味する8番目のかに座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、いったんは浸った感傷や自己憐憫の沼底から這い出していこうとする抑えがたい衝動に気が付いていくこともあるはずです。
「哲学」から「希」を取り戻す
「哲学」という言葉の直接の原語は英語の「フィロソフィー」で、これはギリシャ語の「フィロソフィア」の音をそのまま移したもの。これは「フレイン(愛する)」という動詞と「ソフィア(知恵)」という名詞を組み合わせた合成語で、「知を愛する」つまり「愛知」という意味ですが、ただ実際に日常で使うにはこれは不自然すぎる言葉です。
どうも古代ギリシャにおいても「知的好奇心旺盛な」とか「知的で賢い」くらいのぼんやりとした意味合いに過ぎず、動詞で使われるのが一般的だったようで、それを最初にはっきり特殊かつ限定的な意味で名詞として使ったのがソクラテスでした。
そして日本最初の哲学研究者である西周(にしあまね)は、江戸時代にそれを「希哲学」と訳しました。「哲」は「賢(かしこい=知を有する)」と同義で、意味としては筋が通っていたのですが、明治に入るとそれが「哲学」となってなぜか「希」が削られてしまった。知を「愛し願う」という最も大事な部分が消えてしまった訳です。
つまり、日本語の「哲学」という言葉からはソクラテスの「無知の自覚」は綺麗さっぱり抜け落ちており、むしろ何かご大層な考えを既に所有しているというニュアンスになってしまっている訳です。
今週のいて座の動きは、まさにそんな「哲学」からいつの間にか抜けていった「希」という文字をどうにか取り戻していくことと、どこか通じているように思います。
今週のキーワード
熟慮することと求愛することは本来一つ