うお座
自然児の感覚
自然の中から、自然と共に
今週のうお座は、『つぶら目の瞠れるごとき栗届く』(嶋崎茂子)という句のごとし。あるいは、生きとし生けるものへの素直な愛情を発露させていこうとするような星回り。
「瞠れる」は‟みはれる”と読み、目をみはると同意。なんでもないような一句ではありますが、こういう句はとても技巧だけでは生まれてこないでしょう。
つまり、粒ぞろいの栗の輝きを、幼い子供たちが目をパァっと開いて何かに目を輝かせているときの様子になぞられている訳ですが、これは言葉遊びでそう書いたのではなく、作者にとっては目の前の栗の実がまるで大切な我が子や孫のように感じられたのかもしれません。
これはただ「自然」と呼ばれるものの一部に目をとめて、その意味するところを把握するという近代合理主義的なものの見方ではなく、山川草木という一つひとつが個別に存在している存在と深いところで感応しあって、ともに並んでいのちをみなぎらせていくようなものの見方に、少なからず作者が入りこんでいるがゆえの一句なのだということ。
その意味で、目を大きく瞠っているのは栗の実であると同時に、作者自身でもあり、それらの対等な関わりのなかで、初めて成立しているのだという風にも言えるでしょう。
10月17日にうお座から「身体性の深まり」を意味する2番目のおひつじ座で十三夜の満月(感謝)を迎えていく今週のあなたもまた、頭で考えたことではなく、もっと生きている実感の根本のところでの喜びを誰か何かと分かち合っていきたいところです。
スサノオ的なエネルギーに触れていく
子どもの務めでもある「あそび」という言葉は、もともと古くはは「荒び(すさび)」といって、自然が荒れ狂っているさまを表していたのが、平安時代には「口ずさみ」や「手すさび」という用法を通じて「荒れるスサビ」から「遊ぶスサビ」へと変化していったのだそうです。
この変遷は文化史的にも非常に重要ですが、今のうお座の人たちにとっても、大きなヒントとなっていくのではないでしょうか。
例えば、庭に植えた覚えのない草や花が勝手に生えてきたとか、猫が障子が破ってしまったとか、そうしたスサビのある光景や、自分もまたそこに紛れ込ませていく行為こそが文化的なアソビを誘発していくのであり、少なくともそうした事態に風情を感じたり好感が持つ感覚こそが日本人の感性を豊かに、いきいきとしたものにしてきたはずです。
今週のうお座もまた、直面している事態の本質へスッと飛び込んでいくような、そんな動きが出てきやすいように思います。
うお座の今週のキーワード
遊び(アソビ)の背景には必ず荒び(スサビ)がある