うお座
やさしくなくては生きる資格がない
応答する背中を見せていく
今週のうお座は、「堕落した責任」から「義の心」への道。あるいは、自身が果たすべき「責任」の文脈を明らかにしていこうとするような星回り。
日本財団が2019年に各国の18歳1000人に行った調査によれば、「責任ある社会の一員」と考える日本の若者は約30~40%と他国の3分の1から半数近くにとどまったそうです。
ただ、これは昨今の自己責任論に見られるように、私たちがいつからか「責任」という言葉を、問題が起きた際に「誰のせいなのか」をはっきりさせる“帰責性”の代わりに使うようになってしまっているという事情も大きく関与しているのではないでしょうか。
つまり、ここでいう「責任」とは、強い禁止をその裏に含む英語の「duty」でなく、「responsibility」のことで、これは「応答」を意味する「response」から来ており、つまり、責任とは応答することと深く関係していることになります。ところが、帰責性の文脈における責任とは、決して心が自然と動いて取られるようなものではなく、むしろその逆なのです。
この点について、哲学者の國分功一郎は『“責任”の生成ー中動態と当事者研究』の中で「意志の概念を使ってもたらされる責任というのは、じつは堕落した責任」であり、「押しつけられた責任」に他ならないのだと指摘したうえで、もし別の「責任」があるとすれば、それは「義の心」のようなものだろうと言及しています。
すなわち、人の道として当然行うべきことと知りながらそれを行わない訳にはいかないと心から“感じた”何かに出逢ったとき、人間は「義」というものを知り、それに応えようとするのではないかと。6月4日にうお座から数えて「責任」を意味する10番目のいて座の満月に向け月が膨らんでいく今週のあなたもまた、いかに応答し続けていけるかをみずからに問うていくべし。
「ゼロ・トレランス」に反して
近年、洋の東西を問わず地球上の多くの社会でますます寛容さが失われており、そうした不寛容の徹底化を象徴する言葉に「ゼロ・トレランス」というものがあります。
これは押し売りや酔っぱらい、浮浪者、娼婦など市民道徳に反する行為や存在を絶対に許すことなく厳しく取り締まり、街中から逸脱者や無秩序を一掃することであり、例えば学校というコミュニティにおいては、喫煙などの校則違反行為だけでなく服装や言葉の乱れまでを対象に、それぞれ担任、生徒指導部長、教頭、校長といったレベルごとに対処を細かく決めていくというもので、こうした包摂型統制から排除型管理へという流れは、アメリカを中心に世界的なトレンドになりつつあるようです。
ただその一方で、近年「共生」という言葉もまた、じつに様々な文脈で見かけるようになり、それは他者との関係に乏しく単に同じ空間を共有しているだけの「共存」や、一方だけが利益を得るような「寄生」とも違って、あくまで自分とは異なるものと「共に生きる」ことであり、条件次第では寛容さとも対立したり、原理主義には排他的でありつつも、対立や差異、多様性といったものともなんとか付き合っていこうとする態度とも言えます。
その意味で、今週のうお座もまた、世界的な時流のただ中で自分がどういう態度を取っていくべきか、まずは身近なコミュニティのなかで心に決め、実践してみるといいでしょう。
うお座の今週のキーワード
自分にとって都合の悪い存在もまた許容していくこと