うお座
器から思い溢れる
いつかなし
今週のうお座は、『冬浜に沖を見る子のいつかなし』(西東三鬼)という句のごとし。あるいは、いつの間にか忘れていた自分自身を再発見していくような星回り。
どこか不思議な印象の一句。作者の自句自解には「十歳位の小学生が浜に立って沖を向いていたが、二度目に見た時には忽然として消えていた。それだけのことだ」とあります。
冬の浜辺というのはただでさえ人が少なく寂しい感じのする場所ですが、そこに小さな子どもがひとりでいるというのはいかにも不自然な“異物”のように感じられたはず。しかし、その子どもは沖を見ているのだという。
海というのは、日常ではやり場のない思いが胸の内で溢れかえりそうになってしまった時に自然と足が向く場所ではありますが、まだ幼いながらもこの「沖を見る子」には年齢に不相応な複雑な思いを抱えていたのかも知れません。
そして、作者は「それだけのことだ」とは言いつつも、そんな異物たる子どもにどこか親近感を覚えていたのではないでしょうか。いつの間にか消えていたという言い方で終わるのも、心の奥底に通じている存在であることをかえって強調しているように感じます。
1月15日にうお座から数えて「絆」を意味する8番目のてんびん座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、自然とそうした心の奥底に通じている存在との出会いや逢瀬にふっと開かれていきやすいでしょう。
世間を越えた「潮」として
詩人の永瀬清子が、戦後の混迷期に生きた女性の生活実感を描いた作品のひとつに『窓から外を見ている女は』という詩があります。
産業構造が変わって、女性たちも農業以外の多様な職業につくようになり、それに伴って多くの女性が新しい生き方を余儀なくされる中で自由と不安とのはざまで揺れる日々を過ごしていった訳ですが、この詩はまさにそんな女性たちへ贈られた応援歌でした。
窓から外をみている女は、その窓をぬけ出なくてはならない。
日のあたる方へと、自由の方へと。
そして又 その部屋へ かえらなければならない。
なぜなら女は波だから、潮だから。
人間の作っている窓は そのたびに消えなければならない。
この「窓」とは女性たちを縛る古い社会のしきたりや、保守的な価値観のメタファーとも読めますし、何より「女」自身の中にある社会や文化などによって規定された固定観念なのではないでしょうか。
興味深いのは、この詩では「女」はそうした「窓」を抜け出していくだけでなく、「潮」のように「かえらなければならない」と書かれている点です。ここでは、女性という性が根底に有している強さや自然が、世間や文明のつくりだす人工物をこえたスケール感を持つものとして捉えられているように思います。
その意味で、今週のうお座もまた、この詩に登場するような「窓から外をみている女」や掲句の「沖を見る子」に自身を重ねていくことになるかも知れません。
うお座の今週のキーワード
人間の作っている窓は/そのたびに消えなければならない