うお座
花を咲かせる
きっかけとしての両面感情
今週のうお座は、「ほほえみを含む悔い」のごとし。あるいは、垂直的時間の方向にみずからの生を確かな実感を展開させていこうとするような星回り。
哲学者のガストン・バシュラールは『詩的瞬間と形而上学的瞬間』というエッセイのなかで、「夜が眠りについて闇を静止させ、時が微かに呼吸し、孤独がそれだけすでにひとつの悔恨であるような、まさにそんなときに、ほほえみを含む悔いという詩的瞬間をとりあげてみられよ」と提案した上で、そこでは「相反する極がほとんど触れ合って」おり、「このうえもなく些細な振動でもその両極を互いに入れかわらせ」、「どちらが先行するわけでもない」がゆえに、「垂直的時間のうちに展開されるものであることはまったく明かである」のだと結論付けています。
すなわち、ほほえみが悔いに変わり、悔いが慰めを与えてくれる一方で、他ならぬ悔いがやわらげられ、魂がしずかに高揚していくような、そんな心の最も敏感な両面感情のゆらぎにおいてこそ、通常の生のなか、事物のなかで水平に展開されていくのとは全く別種の価値がつくりだされていくのだ、という訳です。
バシュラールはそれを「不幸の形相美」であるとか、「存在の可逆性が感情化されている」とか表現するのですが、日本的な美意識にならえば、ただ一言、「花」と言えばすむようにも思います。
同様に、23日に自分自身の正座であるうお座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、「社会の役に立つ」とか「地位と名声を得る」といったこととは別方向に展開させていくべきものが自分にはあるはず、といった思いに駆られていきやすいでしょう。
垂直的なコミュニケーション
古代中国の『荘子』には「天籟」「地籟」「人籟」という表現が出てきますが、「籟(らい)」とは風がものにあたって発する音や響きの意で、「地籟」「人籟」とは地上の風穴や楽器の響きがコトバになるということを表しています。では、「天籟」とは何を指しているのか。それについて、哲学者の井筒俊彦は次のように述べていました。
人間の耳にこそ聞こえないけれども、ある不思議な声が、声ならざる声、音なき声が、虚空を吹きわたり、宇宙を貫流している。この宇宙的な声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは、確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、それが人間の耳には聞こえない。(「言語哲学としての真言」)
籟という声ならざる「声」は、確かに人間の耳には聞こえないけれど、胸には届く。そして胸が痛み、張り裂け、あるいは、心の琴線に触れる、と私たちは言う。その時、私たちは図らずも「天籟」のひびきと重なりあって、自他の区別をこえたところにある調和の世界に入っていくのであり、それこそ、バシュラールの言った「詩的瞬間」なのではないでしょうか。
今週のうお座もまた、そんな耳には聞こえい不思議な声とみずからのひびきが重なりあっていく瞬間を見逃さないようにしていくべし。
うお座の今週のキーワード
ひびき/不思議な声と自分のコトバの重なりあい