てんびん座
抑圧の下の未知
“カモ”をやめる
今週のてんびん座は、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』における暴力のごとし。あるいは、暴力ということへの抑圧を解放していこうとするような星回り。
村上春樹はそれまでの作品と異なり8作目の長編小説『ねじまき鳥クロニクル』において、“バットで頭をたたき割る”というかなり暴力的な行為をはじめて登場人物に取り入れました。
英訳を担当しているジェイ・ルービンも村上に「どうしてあんなにひどい暴力が出てくるんだ」と問い質したそうですが、村上によればこれはかなり意図的なものだったようです。
というのも日本の場合、あの大戦争ということがあって、かなり急進的に平和ということが推し進められました。また和というものに異様にこだわりすぎてきたために、暴力に関してかなり抑圧的になってしまい、暴力=悪ということが固定的に捉えられるようになってしまったのです。
けれど「平和の時代」などと言い出す前は、日本も滅茶苦茶やっていましたし、じゃあ社会も滅茶苦茶だったかと言うとそうではない。そこにはある程度のルールが成立していたのですが、現代では暴力に関するルールということさえも感覚的に分からなくなってしまったし、下手に口にすることさえできないという状況があるのではないでしょうか。
ただ、暴力の本質にあるものは、狩猟であれ採集であれ農耕であれ、生き延びるためには必要であり、そういうものは本来誰しもが持っている訳で、それを完全に失ってしまえば単なる“いいカモ”なんです。
6月28日に「生き延びる力」を司る火星がてんびん座から数えて「真剣に向き合うべきもの」を意味する7番目のおひつじ座へと移っていく今週のあなたもまた、ただ暴力というものを「こういうものですよ」と説明するのではなく、自分なりの人生物語のなかで、その発露を模索していくことがテーマとなっていくでしょう。
ランボーの場合
「僕が、はじめてランボオに、出くはしたのは、二十三歳の春であつた。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてゐた、と書いてもよい。向うからやつて来た見知らぬ男が、いきんなり僕を叩きのめしたのである」
これは小林秀雄による有名な「ランボオ論」(1947年)の書き出しですが、これは小林が古本屋の店頭でランボーの処女詩集『ある地獄の季節』の豆本と出会った時の衝撃を言葉にしたのだと言います。
なぜランボーはそれだけのインパクトと魅力を持ち得たのか。それは彼が作品だけでなく人間としても詩を生き切ったからでしょう。
19歳からわずか3年で膨大な数の詩を書き上げた後、彼は詩を捨てて旅の商人となり、最後はアフリカの砂漠で冒険家として生を終えたその鮮烈な生き様に、多くの人が詩の神髄を見たのだと思います。では、ランボー自身は詩やその使命についてどう考えていたのか。
間接的ではありますが、ある手紙の中で彼は「詩人は、その時代に、万人の魂のうちで目覚めつつある未知なものの量を、明らかにすることになるでしょう」と述べています。
今週のあなたもまた、かつての小林のように、惰性的なものに支配されてしまいがちな日常のなかで<未知なるもの>に目を開いていくことで、新しい自分を知ることができるかも知れません。
今週のキーワード
詩人の仕事