しし座
内なる野生の蘇生
失われた原風景
今週のしし座は、日本のグリムこと佐々木喜善のごとし。あるいは、人間の心の奥底に潜んでいる顔や風景を、自分を通して生み出し、展開させていくような星回り。
柳田國男の協力者として『遠野物語』に出てくる日本の昔話の採集や研究に熱心に打ち込み、折口信夫をして「グリム以上だ」と言わしめたのが、佐々木喜善その人でした。
彼の採集した話を読んでいると、「われわれ日本人のなかには、いまだに原始人が棲んでいる」(鶴見和子)とつぶやきたい気持ちにさえなってきます。
やや唐突ではありますが、『遠野物語拾遺』から彼の収集した場所の記憶を以下引用しておきます。
「村々には諸所に子供らが恐れて近寄らぬ場所がある。土淵村の竜ノ森もその一つである。ここには柵で結ばれた、たいそう古い栃の樹が数本あって、根元には鉄の鏃(やじり)が無数に土に突き立てられている。鏃は古く、多くは赤く錆びついている。この森は昼でも暗くて薄気味が悪い。中を一筋の小川が流れていて、昔村の者、この川でいわなに似た赤い魚を捕り、神さまの祟りを受けたと言い伝えられている。この森に棲むものは蛇の類などもいっさい殺してはならぬといい、草花のようなものもけっして採ってはならなかった。」
たかだか100年ほどしか経っていない近代世界において、これほど神さびた雰囲気を漂わせた実話が収集されたことには驚きを禁じ得ません。
ですがそういう「子供らが恐れて近寄らぬ場所」に、不思議なほどのリアリティーだけでなくある種の予感を覚えたからこそ、文字にし記録していったのでしょう。
今週のあなたもまた、どこかで自分の中の「内なる野生」を予感とともに、外側へ向けて表現し、展開させていくことがテーマとなるでしょう。
内部に開かれるということ
『遠野物語』の序文に「鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分も亦……」とあるように、佐々木喜善は稀代の民話収集家ではあったものの、決して老練な語り部ではなかったようです。
しかし、それでも柳田國男は彼への信頼を崩すことはなかった。
何でもかんでも上手に洗練されている必要なんてないんです。
無骨であっても、決して自分に嘘をつかないでいることの方がずっと難しいことだし、大切なことなんです。
たとえ拙いものであったとしても、心の奥底にある心象風景や居並ぶ顔たちを裏切らず、出来る限り自己内部の彼らに応えるように、今週は表現することに挑んでいきましょう。
今週のキーワード
われわれ日本人のなかには、いまだに原始人が棲んでいる