ふたご座
悪童のまなざし
はかない消息、まさかの葛藤
今週のふたご座は、「夏の雲肺ふくらめば言葉消ゆ」(榮猿丸)という句のごとし。あるいは、言葉にならない思いの前でただただ沈黙していくような星回り。
むくむくとどこまでも立ち昇る「夏の雲」には、まだ私たちが自分がいつか大人になるだなんていっこうに想像できなかった頃の「幼な心」を思い出させるかすかな消息が残っています。
ぽかーんとあけた口から、もくもくと立ち昇ったプラーナ(気息)が風にのってどこまでも広がった名残りのようなそれは、私たちを根源的な遼遠に置いていくとともに、遠い未来からの牽引をも感じさせます。
振り返った先に広がっていた「夏の雲」を目の当たりにして、思わずそのはかない消息やまさかの葛藤にとらえられたとき、使い慣れた言葉の数々は脳裡から消えゆき、ただただ大きくふくらんだ肺のからっぽさのなかで、遠く遥かなる感覚だけを呼吸にのせていく。永遠に円熟しない少年の命は、ただ夏の一日なのです。
22日夜にふたご座から数えて「胸ときめく危険」を意味する9番目のみずがめ座で迎える満月から始まっていく今週のあなたもまた、そんな在りし日の自分に立ち戻ったつもりで過ごしてみるといいでしょう。
『悪童日記』の少年
アゴタ・クリストフの書いたこの小説は、戦時下にあった国の小さな町へ連れてこられた双子が書いた‟日記”として綴られており、人並みに働かない限り食事を与えてくれない「魔女」と呼ばれる祖母の家で、たくましく生きていかねばならなくなった日々の記録が、いっさいの固有名詞なしの、不思議な浮遊感のある文体で描かれています。
生き残ることにすべてを賭ける彼らの記録には、「子どもは純粋で可愛い」といった安易な決めつけを無言ではねつけるかのような容赦のなさが満ちています。例えば、彼らは互いに出し合った課題に沿って大きなノートに作文を書くのですが、そこには次のような言葉が出てきます。
ぼくらは、「ぼくらはクルミの実をたくさん食べる」とは書くだろうが、「ぼくらはクルミの実が好きだ」とは書くまい。「好き」という語は正確さと客観性に欠けていて、確かな語ではないからだ。「クルミの実が好きだ」という場合と、「お母さんが好きだ」という場合では、「好き」の意味が異なる。前者の句では、口の中にひろがる美味しさを「好き」と言っているのに対し、後者の句では、「好き」はひとつの感情を指している。感情を定義する言葉は非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。
子どもたちは社会的には確かに弱い。けれど、弱いからこそ、誰よりも残酷に世界を見ようとするものなのかも知れません。今週のあなたもまた、子どものまなざしというものが本来どのようなものであったのか、どこかで思い出してみるといいでしょう。
ふたご座の今週のキーワード
人生の残酷さの感覚(子ども視点で大人世界を見ていくこと)