ふたご座
カオスにジャンプ
存在の根源に触れる
今週のふたご座は、「俺は何もかも忘れてしまったよ」という一節のごとし。あるいは、父母未生以前本来の面目は何なんだか、それを一つ考えてみるような星回り。
禅語録だったか、それとも踊念仏の一遍上人だったか、誰の書いたどの書物かは忘れてしまったけれど、「俺は何もかも忘れてしまったよ」という一節を読んだことがあって、ああこういうことだなあと思ったことがある。
ただ、当時は理解したことを自分の言葉で人に伝える気がなかったからなのか、それが何に対しての「こういうこと」だったのかが分からない。とはいえ、それで何が困ったかと言われれば、何も困らないんだな。「何もかも忘れた」というなまなましい感覚だけが身体に残っている。それでいいじゃないか。
それは存在の根源に触れるというかね。自分が生まれてきた父や母について語ることを通して、父母が生まれるひとつ前の父や母や、その根源をずーっと遡っていくと、そこにカオスがある。その混沌の中へ飛び込んでいくということでもある。
そして、そこからの眼で現実を見る。すべての始まりはそこからじゃないか、と。そう思うんだ。よく分からないけど。
2月18日にふたご座から数えて「カオス」を意味する12番目のおうし座に位置する天王星(目覚め)が、土星(これまでの現実)と90度の角度をとって激しく拮抗していく今週のあなたもまた、何かにつけてすべて忘れてしまえばいい。
発心のきっかけ
逆に「忘れる」ということで思い出されるのは、あるお坊さんの発心のエピソード。
平安時代に貴族であった大江定基は、三河守として任国に連れて行った女が病いにかかりついに帰らぬ人となった際、悲しみのあまり昼も夜もなく遺骸に寄り添っては生前のように声をかけ、唇を吸うことまでしたのですが、やがて「あさましき香り」が口から漂うようになって泣く泣く埋葬するに至ったのだそうです。
定基はこれをきっかけに「なぜ他ならぬ自分がこれほどまでに苦しまなければならないのか?」という思いに憑かれて出家し、寂照と名を変えて天台教学と密教を学び、やがて宋に渡海して紫衣と円通大師の号を賜り、そのまま帰国することなく現地で亡くなりました。
つまり、一介の中級貴族を円通大師たらしめたのが愛する人との死別であり、その残酷な運命を朽ちていく死体のなまなましい観取を通じて受け入れていくという体験だった訳です。ある意味で、これは「大いなる循環」を必要としている今のふたご座にとっても、一つの指針になるようなプロセスと言えるかも知れません。
今週のキーワード
救いとしての忘却