やぎ座
聴くと書く
現実現出の術策
今週のやぎ座は、「テクストの織り出し」のごとし。あるいは、ますます流動的で可変的になっていく人生のただ中で正気を失わずにいられるよう心がけていくような星回り。
かつて哲学者の井筒俊彦は、現代哲学の巨人デリダを参考に、「現実」という言葉を「テクスト」に、「存在する」ことを「テクストの織り出し」へと読み変えてみることで、今まで全然見えていなかった側面が露呈してくるのだと述べていました。
「書く」とは、デリダにとって、心のなかに生起している想念を文字で書き写すことではない。(…)そうではなくて、「書く」とは書き出すこと、何かを存在にまで引き出してくること、つまり、存在そのものを我々の目の前に引き出してきて見せるための術策なのだ、と。(『意味の深みへ: 東洋哲学の水位』)
「書く」と「テクスト」と「存在」が奇妙な形で結びつけ、テクストの織り出しを現実現出の術策とするこの解釈においては、「一切は「テクスト」であり、「テクスト」内の事態」であって、そうすることで「我々は我々自身を、流動的可変的な「テクスト」として織り出して」いるのだと井筒はいいます。
これは、かつての百科全書のように、あらゆるものが整然と整理され、あるべきところにあるべきものがあって、すべてが全体の中心としての神のまわりで見事な秩序をなしているといった世界像が現代ではとうに失われ、私たちの生がもはや、体系的で自足的で、自己完結している「本」のようではありえないということの裏返しでもあります。
現実が「テクスト」であり、そこに自分が存在することを自覚しようとする限り、私たちは実際に起きた出来事に折り合いつけるべく、みずからの手でテクストを織り出し、たぐりよせ、「なぜ」と問い続けていく他ないのでしょう。
11月20日にやぎ座から数えて「実感の深まり」を意味する2番目のみずがめ座に冥王星が移っていく今週のあなたもまた、人生の困難に陥ったときほど、「なぜ」をより一層深めつつも手を動かしていきたいところです。
占い師の立場に立ってみる
例えば、占いを書くときというのは、いきなり書き出す訳ではなく、不在の読者を前にして語る人である前に聴く人でなければなりません。そのあたりの勘所について、リルケは『ドゥイノ悲歌』の中で、次のように表現しています。
声がする、声が。聴け、わが心よ、かつてただ聖者たちだけが
聴いたような聴き方で。巨大な呼び声が/聖者らを地からもたげた。けれど聖者らは、
おお、可能を超えた人たちよ、ひたすらにひざまずきつづけ、それに気づきはしなかった。
それほどにかれらは聴きいる人であったのだ。おまえも神の召す声に
堪えられようというのではない、いやけっして。しかし、風に似て吹きわたりくる声を聴け、静寂からつくられる絶ゆることないあの音信(おとずれ)を。
あれこそあの若い死者たちから来るおまえへの呼びかけだ。(手塚富雄訳)
静寂のうちに生み出される「音信」は死者の声に他ならず、神の言葉を聴く聖人になどなれない私たちは、せめて死者の声を聴こうと言うのです。
ただ、ここで言う「死者」とは、単にかつて死んだ人というより、沈黙の世界のガイドであり、ささやかなもの、小さきもの、見向きもされなくなったものに宿る霊なのだと言ってもいいかも知れません。
今週のやぎ座もまた、時にはただ何も考えずに素朴に手を合わせ、死者を「音信」を受け止めていくような一見何でもないような時間をこそ大切にしていきたいところです。
やぎ座の今週のキーワード
語る人である前に聴く人であらんとすること