やぎ座
難しさと楽しさのせめぎあい
語り尽くさないことで多くを語ること
今週のやぎ座は、近松門左衛門の「虚実皮膜論」のごとし。あるいは、何かを人に伝えていくことの難しさと個人的課題とを認識していこうとするような星回り。
歌舞伎や人形浄瑠璃の江戸時代最大の劇作家・近松門左衛門は、『難波土産』(1738年)の中で「芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜のあいだにあるものなり」「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、このあいだに慰みがあるものなり」と書きました。
つまり、あまりに直接的な事実だったり、余りにでたらめなウソばかりでは、人の胸には真実らしさとして迫ってこない、リアリティもない。虚と実との微妙な“あわい”にあって、起伏をつくり、その境界をあいまいにすることによって初めて、一抹の真実を含んだ芸術となり得るのだと説いた訳です。
それを体現している装置が、例えば人形浄瑠璃における「黒子(くろこ)」であり、慣れない最初こそ人形を操る黒子の存在は目障りで気になるが、やがて黒子によって人形に命が吹き込まれ、その演技がこちらの想像力を増幅させることに気が付いていくはず。
この表現法について、元田與一はこう述べています。「近松は『あはれなり』と書くだけで、あわれさが醸しだされると考えることの愚かさを力説」し、「描き尽くさないこと、演じ尽くさないことによって、逆に多くを語りだそう」(『日本的エロティシズムの眺望』)としているのだと。
10日にやぎ座から数えて「他者に訴えるべきこと」を意味する7番目のかに座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、今の自分に足りないのが虚なのか実なのか、はたまたそのバランスにあるのかということについて、改めて考えてみるといいでしょう。
継承と変容
言葉というのは単に情報を伝達するためのものではなく、その語り口や語の選択によって、手触りや響きや質感などが大きく変わっていくものです。
例えば短歌は、五七五七七という決められた枠の制限を設けることで、そうした微妙な差異にきわめて自覚的に関わっていく営みであり、それを達人の域まで磨き上げてきたのが歌人という人たちなのだと思います。明治時代の与謝野晶子は次のように詠みました。
八つ口をむらさき緒もて我れとめじひかばあたへむ三尺の袖(ペアルックなんか着ないわ新しい服をくれるという人が彼)(俵万智『チョコレート語訳 みだれ髪』)
この「彼」というのが与謝野鉄幹だった訳ですね。それにしても、きっと人生には一度しか書けない文章や語の組みあわせというものがあって、与謝野晶子はあの時代に自分の命を燃やしてそういう言葉を紡ぎ続けてみせた訳ですが、俵万智はそれをもっとさりげなく、軽やかに、けれどやはり二度とないさじ加減で作り変えてみせてくれました。
こうして言葉の底にある思いを受け継ぎつつも、言葉を変えて繋いでいくのも言葉を使う私たちの役目なのかも知れませんね。
今週のキーワード
詩の言葉と日常の言葉