みずがめ座
生きた言葉を求めて
悪を通して善を実現する
今週のみずがめ座は、生きた言葉の成立への試み。あるいは、どこかボケボケになっていた悪のリアリティへの鋭敏さを取り戻していこうとするような星回り。
現代は人びとがますます近代実証主義の枠から外れたことを扱うのが苦手になりつつあるように思いますが、そうすると人間の体験知のごく一部が守備範囲になりますから、結果的に良くも悪くも通常の理解や常識が及ばない状況に遭遇したり、一筋縄ではいかない困難や面倒とうまく接することができなくなってしまったのではないでしょうか。
そうした現代社会の傾向について、作家の佐藤優と美学者の高橋巌は2人の対談を収録した『なぜ私たちは生きているのか』のなかで、「悪のリアリティに鈍感になっている」という言い方で指摘していました。それは個人の内面だけでなく、宇宙全体のなかにも悪の要素というのは働いていて、それが出会いや縁、人間関係にも作用しているということなのですが、これは具体的な文脈でないとなかなか伝わらないかも知れません。
例えば、「ちょっとした会話から悪が生まれ、それによって人間が変わってしまう(佐藤)」といった場面を思い浮かべてみてください。聖書にも、何を食べたら罪になるかを心配している弟子に、イエスが食べ物は心配ない、口から出るものが問題だと伝える箇所があるように、悪は言葉(嘘)から出てくる一方で、善もまた言葉(真実)から生まれてくるもの。
つまり、先の「悪のリアリティ」というのも、最終的には言葉の生き死に問題であって、それは何らかの危険が差し迫った限界状況で嘘やごまかしを見抜いたり、小説や映画(嘘)より奇妙な事実を前に、なるべく自分に都合よく言葉を紡がないよう自分を戒めたりするなかで、ようやく掴みえるものなのです。そして言葉というのは一種の共同主観性のなかで成立しているものでもありますから、独りよがりな私的言語ではなく、少なくとも2人以上の人間に共有されるようなものでなければ、それは生きた言葉にはならないし、そもそも悪が入ってくることも、それを通して善が実現されていくこともないのだということ。
その意味で、28日にみずがめ座から数えて「他者性」を意味する7番目のしし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、「言(ことば)のうちに命があった(ヨハネ福音書)」という言葉をよくよく胸に刻んで過ごしていくべし。
『収容所のプルースト』より
ソ連の強制収容所において、ポーランド人チャプスキによって密かに講義され、後日持ち出された講義ノートがまとめられたプルーストの『失われた時を求めて』論があります。
プルーストは革新的な形式を通じて、ひとつの思想の世界を伝えています。それは読者の思考能力と感受性のすべてを目覚めさせながら、価値観をまるごと刷新することを求めてくるような、人生に関するひとつのビジョンなのです。
チャプスキは『失われた時を求めて』についてこう結論付けるのですが、それはどのような意味においてなのか。
『失われた時』の重要なテーマについて触れなければなりません。それは肉体の愛の問題です。プルーストはこの最も隠された秘密の側面を研究しています。どんな変態や倒錯も、美化することも卑下することもなく、分析家としての冷静さを保って調べあげるのです。(中略)プルーストはすでにこの時点で、人間の魂の最も密やかで、多くの人が知らずにおきたいと願う領域に、その分析のランプの光を投射していたのです。
注意深い読者ならば、もしかしたら「悪を通して善を実現する」とはそういうことなのかもしれないという結びつきを感じているはず。今週のみずがめ座もまた、なぜチャプスキが強制収容所という限界状況のなかでプルーストの言葉を求めたのか、ということをなんとなく頭の隅に置きながら過ごしてみるといいでしょう。
みずがめ座の今週のキーワード
魂を取り戻すための試み