みずがめ座
袋小路を突破するために
ふいに「整う」とき
今週のみずがめ座は、『借り傘に花の雨いま街の雨』(北野平八)という句のごとし。あるいは、日常をちょうどよく整え、リフレッシュさせる塩梅を模索していくような星回り。
出先で雨に降られてしまったときに、「これでよければ」とお店か得意先かに差し出された傘をさしているのかも知れません。
どこか手になじまず、気持ちもどんより曇ったまま歩いているうちに、桜並木にさしかかり、雨に煙る桜の花の美しさに心奪われた。そうしてしばらく陶然(とうぜん)としながらぼんやり歩いていると、不思議なもので借り傘も気にならなくなってきた。気付けば、あたりはもう見慣れた街の風景で、雨自体もこれはこれでいいじゃないかと充足感さえ覚えている。
こういう繊細な感覚の変化は、しかし考えてみると私たちの日常において「整う」という形でしばしば起こっていることのように思います。ただしそれは、ものすごい非効率的な状態を効率化してスッキリさせるというのともすこし違っていて、むしろ必然性とか計算や思惑などでともするとがんじがらめになりがちな現実が、ふいに「偶然性に侵食される」ことで、ふたたび心地よい遊びを取り戻していくといったニュアンスで。
つまり「雨」だけでは、単にかき乱され、面倒になっていただけだったところに、「桜の花」がたまたま重なったことで、日常をちょうどよく整えるだけの変数となり得たということなのでしょう。
同様に、29日にみずがめ座から数えて「ウェルビーイング」を意味する6番目のかに座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、いかに日常に“鮮度”を取り戻していけるかどうかがテーマとなっていきそうです。
奇跡ではなく美を
生命の歴史を振り返ると、どんな種でも進化の袋小路に入り込んでしまうことはあるものですが、ただそこからさらに自分で自分の首をしめていくようなケースについては(大抵はそうと知らずに)、はっきりと間違っていると言わねばなりません。
グレゴリー・ベイトソンはそうした間違いの元は「奇跡の希求」なのだと言いいます。救世主であれ、降霊術であれ、「奇跡とは物質主義者の考える物質主義的脱出法に他ならない」のであり、そうした安易な誘惑にのることは誤った試みなのだ、と。
野卑な物質主義を逃れる道は奇跡ではなく美である―もちろん醜を含めた上での美だけれどね(『精神と自然―生きた世界の認識論―』)
興味深いのは、彼がそんな美の実例として、ウミヘビや、サボテンや、ネコなどの生き物を取り上げてみせるところでしょう。ベートーヴェンの交響曲やフェルメールの絵画ではなく、そうしたシンプルな形態を選んだのは、どこか掲句の作者が「整った」体験とも通じているのではないでしょうか。
奇蹟ではなく、醜を含んだ美をこそ求め、自分を変化させていくこと。今週のみずがめ座はそんなことを頭の隅において過ごしてみてほしいところです。
みずがめ座の今週のキーワード
野卑な物質主義を逃れる道