みずがめ座
日暮らし硯に向かいて
「今・ここ」の肯定
今週のみずがめ座は、「つれづれ」という言葉のごとし。あるいは、今ここに在ることができる不思議に感じ入りつつ、自分にできることに手をつけていくような星回り。
今年も一年、なんとか無事に終わることができたとホッとしている人も多いかと思いますが、倫理学者の竹内整一はそうした生きて在ることの「ありがたき不思議」の感覚を、例えば『徒然草』を書いた吉田兼好の死生観のうちに見出し、次のように述べています。
「兼好は、死とは、いつか来るというものではなく、「かねて後に迫れり(すでに前もって背後に迫っているものだ)」(一五五段)と言う。それゆえ、「思ひかけぬは死期なり。今日までのがれ来にけるは、ありがたき不思議なり」(一三七段)と説くのである。」
「兼好は、だからこそ、その日その時を楽しんで過ごせ、と言うのである。「つれづれ」とは、無目的ということであるが、たんなる暇つぶしの意味ではない。その日、その時を何か今あること以外の目的のためだけに費やして生きることの否定であり、今ここでしたいと思う事をするという「今・ここ」の積極的な肯定のすすめなのである。」
「兼好にとっては、この眼前の日常現実は、それ自体、本来ありえなかった「ありがたさ」の折り重なりとして感受されていたのである。」(『やまと言葉で哲学する』)
こうして兼好が「今・ここ」の積極的な肯定」を「モチベーション」などいかにも他人事然とした白々しい言い方ではなく、あえて力みの抜けた「つれづれ」という言葉で表わしてみせた姿勢は、年末年始のような区切り目にこそ思い出しておきたいものです。
12月30日にみずがめ座から数えて「言語化」を意味する3番目ののおひつじ座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、「つれづれなるままに」筆を取るなり、誰かへのプレゼントを選ぶなり、手料理を振る舞うなりしてみるといいかも知れません。
小舟で釣りをするように
埴谷雄高はかつて『不合理ゆえに吾信ず』において「肉体をかこむかぼそい層の空間に眩暈のような或る不思議が棲んで」いると書きましたが、私たちは夜寝る前の意識がストンと闇に落ちる寸前や、まだ自分がどこにいるのかも定かではない完全な覚醒前のひと時にそうした「かぼそい層の空間」を毎日繰り返し通過し続けているのではないでしょうか。
普段なら、そうした「今・ここ」の質感をすっかり忘れて、あるいはまったく気付かずに生活している訳ですが、年末年始のようなタイミングならば、そんなほとんど息もできない薄く伸びた層に、さながら網でも張るように意識を添わせていくことができるはず。
そこに引っかかってくるのはすっかり忘れていた子供のころの喜びかも知れませんし、人生の途上でどこかへ投げやってしまった感覚や、肉体に深く刻まれた記憶の場合もあるかも知れません。
今週のみずがめ座もまた、小舟から糸を垂らして釣りをするように、アンテナを立てつつもあくまでのんびりと“何か”が引っかかってくるのを待つようにして過ごしてみるといいでしょう。
みずがめ座の今週のキーワード
肉体の周囲には「眩暈のような或る不思議が棲んで」いる