
おうし座
ベランダ・夜道・月明かり

生活に間をあける
今週のおうし座は、『春宵のやっと手ぶらとなる時間』(日隈恵里)という句のごとし。あるいは、目的と手段の連鎖のプロセスを外側に開かれていこうとするような星回り。
「春宵(しゅんしょう)」は日が暮れて間もない頃の、おぼろにかすんだ春の夜の意。冬の日暮れはあっという間で残酷だが、春のそれは郊外をゆっくり流れる小川のようにのんびりとした風情があって、どこか柔らかい。
「手ぶらなる時間」というのも、時間の空白をたえず埋めておかねば落ち着かないといった息せき切った「前のめり」な生活態度とは対極にあるような感覚のことだろう。そしてそれは、労働にたずさわることで目的と手段の連鎖のなかに編み込まれていくうち、いつの間にか見失っていた「それ自体のうちに充実し、満たされている」時間なのだと言える。
労働時間やそのための休息としてのオフにすき間のなさやこわばりがつきものなのは、目的と手段の終わりなき連鎖のプロセスのどこにも偶然性がはたらく余地がなく、生産性とか成果という形で労働が一義的に規定された機械的プロセスにならざるを得ないからだろう。
春の夜に「やっと」訪れた「手ぶらなる時間」には、何かが達成されようとされまいと、役に立とうと立つまいと関係なく、ただベランダでボーっとしていたり、道を歩いているだけで存立しうるような豊かな意味と言うものが確かに存在するのだ。
4月13日におうし座から数えて「強迫観念」を意味する6番目の星座であるてんびん座で満月(リリース)を迎えていく今週のあなたもまた、みずからを必然性の外へと連れ出してくれるような機会を得ていきやすいはず。
『おくのほそ道』は出羽の国に入ってからよくなるという話
文学研究者の芳賀徹は、日本の紀行文学の最高峰とされる松尾芭蕉の『おくのほそ道』のクライマックスは、通説では松島とか平泉とか、いわゆる名所旧跡とされ、伝統的に和歌に詠みこまれてきた場所にあるとされるのに対し、むしろそういう伝統文化の形式がほころびていく出羽あたりにあるものとして読まれるべきだろう、ということを述べていました。
いわく、和歌に詠まれた名所やその痕跡としての歌枕なんてものは、しょせん京都を中心とした都会の貴族文化をモデルとして辺境を切り取ろうとする眼差しの副産物に過ぎない。逆にそういうお高くとまった都会人の固定観念や想念体系が、みちのくに息づく古代的な地の霊のようなものに触れ、破られ、打ち捨てられるにしたがって、目に映ってくるものが生き生きと立ち上がってくるそのリアリティこそ、大切にされるべきだと言う訳です。
このあたりの話は、おそらく今のおうし座の人たちにも通底するのではないでしょうか。つまり、さまざまな記号やしがらみにがんじがらめになった「都会人」である以前に、お前は現に生きているひとりの人間であり、生命体だろう?と。
今週のおうし座は、そうしたほころびや破れということを肯定的に受け入れてみることがテーマとなっていきそうです。
おうし座の今週のキーワード
ほころんでナンボ





