isutaでは今週も、SUGARさんが贈る週間占いを配信。
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今週のおひつじ座の運勢
スケール大きくはかりごとせよ
今週のおひつじ座は、動かしがたい現実を動かしていく計画を立てていくような星回り。
「下萌や石をうごかすはかりごと」(高浜虚子)という句は、作者73歳の頃の句。春が近づいてくれば、少しずつ水がぬるみ、やがて草が萌える。掲句はそれを「石をうごかすはかりごと」という言い方で捉えてみせています。
「下萌(したもえ)」の下とは枯草の下の意であり、厳しい冬をじっと耐え春をたのむ心。それを中長期的なスパンで見つめるまなざしがあって初めて、庭の「石をうごかす」というビジョンは「はかりごと」、つまりあれこれと算段を立てて考えた計画となっていくのです。作者の頭の中には、きっと下萌が石を動かしていく様子を定点観測カメラで捉えたようなシーンが映像化されていくはず。
作者の言葉で「句なり歌なりはその生活の流の上に浮いている泡である。生活は地下を這うている竹の根である。俳句や和歌は地上に生えている竹である」とありますが、生きたビジョンからは自然と心地よい音が聞こえてくるもの。あなたも、こうなったらいいなという未来の踏み石となっていくような計画を構想し、その具体的な手順を練ってみるといいでしょう。
今週のおうし座の運勢
<私>はあなた
今週のおうし座は、風に吹きっさらしの「世間」というむき出しの現実にさらされていくような星回り。
津島佑子の連作短編小説『光の領分』の主人公である<私>は、藤野という男と結婚している若い母親。藤野は経済的な理由から、婚姻関係を結びながらも<私>と別居しており、愛人と暮らしている。藤野は別居するにあたり<私>の引っ越し先を勝手に決めてしまうが、当初の<私> はそれに対して「一人の男に引き摺られて行く快感」を覚える。しかしやがて藤野の身勝手な態度に疑問を抱くようになった<私>はその部屋を出て、夫の名前「フジノビル」というビルの最上階の一室に住み始めます。
はじめは偶然の一致だと考えていた<私>も、物語終盤で「私はビルの名前にも、自分自身の夫との深いつながりを感じ、それに身をまかせてみようと思っていたのかもしれなかった」と回想している。つまり<私>はみずからのことを「夫」に従属する「妻」として自分で位置付けていた訳ですが、同時にそのことに違和感を覚え、抵抗し続けているという矛盾した状態にあったということになります。
作中で<私>は繰り返し夢を見ますが、他にも偶然聞いたテープの音声や、訳の分からないことをわめく酔っ払いの口から、メッセージなのか幻聴なのか分からない言葉を聞いてしまうのも、きっとそんな身分の定まらない不安定さゆえ。今週のあなたもまた、世間から保護膜によって隔てられるのではなく、むしろ世間に飛び出していくための最適な出入口を見定めていきたいところです。
今週のふたご座の運勢
アースにアースする
今週のふたご座は、居ずまいを正しておのれを律していこうとするような星回り。
カルデラを伴う活火山・浅間山の様子を詠んだ句「春星や女性浅間は夜も寝(い)ねず」(前田普羅)。この句の重点は「女性浅間(にょしょうあさま)」という語にかかっており、火口から立ちのぼる噴煙が夜もうちなびいているさまを「夜も寝ねず」と感じ、どこか潤むような「春星や」という呼びかけと照応させていくことで、浅間山の生命感がより一層強く深く宿っていくように思われます。
俳句は実際の自然の景色を詠うため、必ずどこかに絵画的な要素がなくてはいけませんが、色彩だけではなく骨格がしっかりして、その上での肉付けでなければならず、さらにそこに生命感が流れているのでなければなりません。同様に、浅間山がただ峻厳さをもって眼前に聳えているだけでなく、愛隣のこころに満ちて燃え続け、人びとを温かく抱き寄せ、またこれを育む母性としてそこに在ることを、掲句ほどごく自然に詠んだ句はそうそうないでしょう。
あなたもまた、ただ知識をもっておのれを飾り立て、快楽原則的な反応に終始するのではなく、作者のような毅然とした気魄をもって自然や他者と向きあい、その内奥に感じ入っていく姿勢を心がけていきたいところです。
今週のかに座の運勢
身体の邪魔をしなさんな
今週のかに座は、過剰なエネルギーを発散させるべく、とにかく身体をほぐしていこうとするような星回り。
情報の流れがますますハイパーになっていく現代社会。私たちは日々普通に生活しているだけでも、どんどんエネルギーを発散させていく身体の在り方が知らず知らずのうちに求められている訳で、その一つの方法は消費による発散ですが、買い物や飲酒などの消費による発散ばかりに頼っていると、どこまでも情報に流され、混乱していくだけで、自由に泳げるようにはなりません。
かつてであれば、超能力の獲得だとか超人的な自分を作りあげるといった方向に魅力を感じる人も多かったように思うのですが、現代ではその人の身体を正しい方向に矯正するというのではなく、その人が自然にあれるよう身体に刻まれた緊張を解いていくという方向にこそ、発散的な身体技法の活路が見出されるのではないでしょうか。
つまり無理をして自分以上にならないこと、また身体のエネルギーのおもむくままにして、できるだけその邪魔をしないということです。今週のあなたもまた、そうした力みのとれた素直な身体に近づけるべく、できるだけ身体のわがままを聞き届けてあげるくらいでちょうどいいでしょう。
今週のしし座の運勢
治癒的繋がり
今週のしし座は、何かのきっかけで一人称がスッと広がっていくような星回り。
世の中の悩みというのは大きく2種類あって、自分でどうにかできる悩みと、自分ではどうすることもできない悩みが存在します。例えばTwitterで偶然見てしまうと嫌な気持ちになるような物事を見ないようにするとか、自分の認知の仕方や選択次第で変えられるものは前者に入り、逆に言えばその他ぜんぶは後者に入るわけです。
人ひとりには手に余るどうしようもない悩みは、そこにコミットしようとするのではなくて、リセットしていく他ないはず。けれど、「春寒の無礼を別の人が詫びる」(中山奈々)の作者は、その「無礼」をあえて詫びています。いや、あえてなどといった堅苦しくって恩着せがましい前置きをすっ飛ばして、「なんかごめんね!」とおそらく本能で詫びているのです。
もちろん「春寒」の原因が、中山奈々という名前を持った個体のせいではないことは百も承知なのですが、どこかぼわんと自己の輪郭がひろがって、あたりの空気や大地や地球にシュンカン的になりかわってしまったのだとも言えます。あなたもまた、これまで繋がりを持っていなかったような誰か何かと、そんな風に瞬時に繋がっていくことがあるかも知れません。
今週のおとめ座の運勢
生活をデザインする
今週のおとめ座は、ひっそりと跳ねるベニヒワの羽音のような生活のリズムを取り戻していくべし。
それはまるで、ウィリアム・バトラー・イェイツの「イニスフリー湖の島」という詩のよう。「さあ、立ちあがって行こう、イニスフリーに行こう、ちいさな小屋をあの島に建てよう、粘土と小枝を使って。」(須賀敦子訳)という冒頭からすでに、まだ知らなかった人生の部分に足を踏み入れようとしている者の感慨を感じますが、作者のはこれを舗装されたロンドンの街路にたたずんで、つくづく故郷を想いながら書いていたのでした。
つまり、周囲に流されるのではなく、今度こそ自分らしい生活に戻るぞ、とそんな詩人の決意が書かせた詩行なのでしょう。「それから、安らぎをすこし手に入れよう、安らぎはゆっくりと降りそそぐから、朝の時間の紗をとおしてコロオギが歌うそのあたりまで 真夜中がきらめきそのものになるあたり、正午はむらさきのほむら、そして夕ぐれはベニヒワの羽ばたきにすべてがいっぱいになる。」
今週のあなたもまた、どんなにささやかでも、この詩のような「これ以外にない」といった深い感じをみずからの日常生活に取り戻していきたいところです。
今週のてんびん座の運勢
円環的調和
今週のてんびん座は、ちょっとしたことに驚き、心弾ませる子どもの心を取り戻していくような星回り。
「雪解川でんぐり返るつんのめる」(山口隆右)の舞台は、おそらく雪国の大河。春になって日差しが暖かくなり、北風にかわって東から吹く風に変わると、それが雪解(ゆきどけ)をさらに促していきます。「でんぐり返る」も「つんのめる」も慌て者の姿態ですが、ここでは水の流れの勢いを描写しているのでしょう。
ただそれは「我先に、先を競って」というよりも、あまりに喜びの大きさが先行して、体がついていかずに足元がもつれて、といったニュアンスのように感じられます。つまり慌てているように見えた姿態は、やはりそれを見つめる人間の側の心理に帰せられるのだということ。作者はどこかそんなまなざしの反転を早春の風物として楽しみ、一緒になって心弾ませているようです。
きっと自然と人間、運命と自由意志のバランスが今よりずっと前者に傾いていた時代においては、そうした楽しみこそが生活の苦しみを救ってくれる何よりの処方箋であり生活人としての趣味だったのでは。あなたもまた、いつの間にか忘れていたこの世の純粋な楽しみ方を思い出していくことがテーマとなっていくはず。
今週のさそり座の運勢
すぽぽぽぽーん
今週のさそり座は、惰性の罠から脱け出すべく、捨てるべきものを見定めていくような星回り。
それはまるで、世阿弥の「住する所なきを、まず花と知るべし」のよう。「住する所なき」とは住居のことではなく、「そこに留まり続けることなく」の意。世阿弥が完成させたと言われる能は現在からみれば伝統芸術ですが、世阿弥が生きた室町時代においては目まぐるしく変わっていく途中の「現在の芸術」でした。
すなわち、当時の能は珍しさが求められ、目新しさが観客の関心の的となり、毎回公演ごとに変化していくことこそが芸術の価値。その意味で冒頭の言葉は、自己模倣のうちに同じことを繰り返す惰性の人生や、その惰性の罠から脱け出していくことが「花」=芸術の本質であると言っている訳です。裏切ってでも、変化を求め、ファンを新しい次元へ連れていくのが芸術家の役目なのだと、世阿弥は考えたのです。
今週のあなたのテーマもまた、これまでの自分のままでやっていこうとする「住する」の精神をどこかで捨て、卒業していくということなのだと言えます。世阿弥の言葉は厳しいですが、今こそ耳を傾けていきたいところ。
今週のいて座の運勢
まずはちょっと外をのぞいてみる
今週のいて座は、待つことの楽しさを知っていくような星回り。
「羽もなく鰭もなく春を待つてをり」(藤井あかり)という句で詠まれているのは、おそらくわたしの背には羽も魚の鰭(ひれ)もなく、別の世界へ行く力もない、そのためただ春の到来を待つしかない、という心情。しかし作者の中には、かつて鳥や魚になった記憶やイメージが残っていて、それだけに今はそれが不可能であることをまざまざと突きつけられているようにも感じられます。
おそらくこれは松尾芭蕉の「行く春や鳥啼き魚の目は涙」を意識して詠まれた句なのではないでしょうか。ここでは過ぎ去る春とともに旅立つ我との別れを惜しむように、空で啼く鳥となり、水中で涙する魚となるといったように、互いが棲む世界を自由自在に相移相入していく感覚が呼び覚まされていますが、掲句ではそれを空間的にではなく、時間のサイクルの中で実現しようとしているのかも知れません。
つまり鳥や魚に今すぐはなれなくても、やがてこの場所に春が巡ってくれば、草木が芽吹き、鳥が訪れ、川にも魚が戻ってくることを作者は知っているのです。あなたもまた、下手に動き回るのではなくただじっと待つことで感じられる変化の豊かさに目を配ってみるといいでしょう。
今週のやぎ座の運勢
新たな富のありか
今週のやぎ座は、行き当たりばったりな道行きのなかで、未来への希望を見出して行こうとするような星回り。
歴史学者・村井章介さんの『世界史の中の戦国日本』の中で、宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に向かっているとき、アジア人にかなり絶望していたことが手紙からわかったという話が出てきます。彼らは自前の船で航海していた訳ではなく、中国人の船に乗っかって移動していたのですが、彼らの行動はザビエルたちにとって迷信深い愚かな行動としか映らなかったのでしょう。
そんな中、マラッカで初めて会ったまともなアジア人がアンジローという日本人。彼はとても好奇心が強く勤勉で、ポルトガル語も8カ月あまりで覚えてしまうなどの才能に優れていたため、ザビエルは日本で布教することを思い立ち、そこに希望を託したのです。これは旅先で出会った人と仲良くなって、その人の母国へ連れていってもらおうという、典型的なパックパッカーの行動そのものですね。
ただ、実はアンジローは薩摩で殺人を犯して海外へ逃げてきた人であったなど、かなり危ういバランスの上で成り立った出逢いであり、たまたまよい方向へ転がったのだと言われています。あなたも、新たな財源やその可能性を見出すべく、いつもなら踏み込んでいかない領域へと足を延ばしていくことがテーマとなっていくでしょう。
今週のみずがめ座の運勢
ほんのすこしだけ手を加えること
今週のみずがめ座は、伝統や過去の遺産を引き継ぎつつも、そこに刷新を施していくような星回り。
「春めくや水切籠に皿二枚」(小川軽舟)という句を一読して思い出されるのは、俳句の世界では名句として知られる「秋風や模様のちがふ皿二つ」という原石鼎の句でしょう。
掲句は「春めく」陽気の暖かさのなかで「皿二枚」という台所の慎ましさがそっとやさしく包まれるようで、じつに対照的な味わい。作者は家族を養うために、家族と離れて暮らす単身赴任生活を余儀なくされた訳ですが、ここでも原石鼎(はら せきてい)の句と真逆のベクトルを向いています。
余分な水滴を落とす「水切籠」のサッパリとした語感は、そこに過剰な感傷や自己憐憫は持ち込むまいとする作者の潔さも感じられるのでは。あなたのテーマもまた、移りゆく時代にあわせてかつて押しつけられた「当たり前」を潔く刷新していくことがテーマとなっていくでしょう。
今週のうお座の運勢
無学な聖人たれ
今週のうお座は、「叡智」の訪れを招いていこうとするような星回り。
日本独自の無教会主義を唱えたキリスト教思想家・内村鑑三の『代表的日本人』は、明治時代にまず英語で出版され、そこでは西郷隆盛ら5人の生涯が取り上げられるのですが、中でも同じ教育者として内村が深く敬愛したのが江戸時代初期の儒学者・中江藤樹でした。
「“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。」
中江藤樹は情報ないし知識を得ることと、叡智に出会うことはまったく違うことなのだと強調している訳ですが、後者の核は「与えられるもの、訪れるもの」としての「徳」であり、その根源こそ内村が取り上げた5人のなかで脈々と息づいてきた、彼らを越えた存在としての「天」でした。今週のあなたもまた、無学者の精神に立ち返って叡智を仰ぐべし。
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