さそり座
切に望むもの
恋愛へor恋愛から?
今週のさそり座は、近代人の病いとしての「恋愛」のごとし。あるいは、誰かに愛してもらう必要性やその度合いについて冷静に計測していこうとするような星回り。
二谷友里恵の『愛される理由』が話題となり、角川書店が『贅沢な恋愛』という短編集を出し、ユーミンが「純愛」というコンセプトを商品にして、いずれも売れに売れた90年代初頭の雰囲気が漂っていた1990年に発表された社会学者・上野千鶴子の『恋愛病の時代』には次のような記述があります。
ひと昔前は「恋愛」は「その人のために死ねるか」(曽野綾子)という能動性だったが、世紀末の恋愛は「愛される理由」(二谷友里恵)という受動性に変わってしまった。ほんとうは「愛したい」のではなく「愛されたい」だけなのだと、ベストセラーの一〇〇万部という部数は教えてくれる。「わたしを愛してくれるあなたが好き」と。異性愛とは、「自分と異なる性に属する他者を愛せ」という命題だが、<対幻想>から異性愛のコードをとり去ってみると、「愛されたい願望」はますますはっきりする。(中略)性別は「おまえは不完全な存在である」と告げるが、それを超えて完全な「個人」に近づくだけ、恋愛病は深くなる。(『発情装置』)
そして上野はそこに「恋愛病は近代人の病いだ」と続けるのです。一昔前には当たり前とされた「経済的に自立できない女」と「生活的に自立できない男」の相補的な「結婚」モデルの無理や不自然さが加速化し、崩れつつある現代において、私たちは再びただの「個人」として「恋愛したい(愛されたい)」と深く渇いているのでしょうか。
かつて上野は『恋愛病の時代』の結びで、「ここから「愛されても、愛されなくても、私は私」への距離は、どのくらい遠いだろうか。そして自立した「個人」を求めたフェミニズムは、女を「恋愛」へと解き放つのだろうか、それとも「恋愛」から解き放つのだろうか?」と書いてみせましたが、こうした一連の問いかけは、それから30年の月日が経過した今だからこそ、深く染み入るように感じる人も多いのではないでしょうか。
7月28日にさそり座から数えて「パートナーシップ」を意味する7番目のおうし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、どのような位相において自分は渇いているのか、改めて振り返ってみるといいかも知れません。
「私は」or「私に」?
ヒンディー語では、「私はうれしい」というのは「私にうれしさがやってきてとどまっている」という言い方をするのだそうです。つまり、「私は」ではなくて、「私に」で始める構文があって、それを「与格」といって、これが現代語の中にもかなり残っていて、「私は」と「私に」のどちらで始めたらいいのか初学者は非常に混乱するのだとか。
しかし考えてみれば、「私は」というのは、ある行為を意思によって所有しているという観念とひもづいている訳ですが、たとえば「私は〇〇というアイデアを思いついた」という事態ひとつ取ってみても、本当にそのアイデアが私に起源を持つのかは疑わしいと言わざるを得ないのではないでしょうか。
逆に「私に」というのは、ある種の不可抗力によって〇〇がやってきたという現象を指している訳で、それは「風邪をひいた」とか「恋が芽生えた」といった事態を前にしたとき、私が意図的にそれを抱こうとしてそうなったのではなく、やはりどうしようもなく私にやってきてしまったと受け取るのが自然な場合は案外多いのではないかと思います。
ただ、それがどこからやってきたかというと、インド人にとってはそれは神々であったりする訳ですが、日本人であればそれは先祖の因縁であったり、森の奥の暗がりであったり、たまたま目に入ったSNSのポストだったりの方がリアリティがあるかも知れません。
さそり座の今週のキーワード
与格の恋