てんびん座
固まりから群がりへ
<私>が滅却する方へ
今週のてんびん座は、「自己からの救済」への流れに乗った小舟のごとし。あるいは、私がますます小さくなる方へと流れ流れていくような星回り。
哲学者の山内志朗によれば、古来からの<私>をめぐる思考は、「自己への救済」を求める枠組みと「自己からの救済」を求める枠組みの2つに大別され、例外はあれど前者の典型がキリスト教であり、後者の典型が仏教なのだと指摘した上で次のように述べるのです。
哲学もまた、<私>への救済と、<私>からの救済という二つのベクトルを合わせ含んでいると思います。デカルト以降、「<私>への救済」モデルが主流になってしまいましたが、「<私>からの救済」というモデルは、東洋においてばかりではなく、西洋においても二大主流の一つになっていたと思います。「汝自身を知れ」とか「我思う故に、我あり」という格率だけでは不十分なのです。(『小さな倫理学入門』)
仏教における「<私>からの救済」とは、考える<私>は同時に<空>であるという感得であり、恐らく同様のことを、鈴木大拙は「心なきところに働きが見える」といい、シモーヌ・ヴェイユは「南の方に向かって北方の星を眺めよ」という禅の公案を好んで引用しつつ、そこから広がる無心の世界に向きあおうとしていました。
12月5日にてんびん座から数えて「潜在的な意識」を意味する12番目のおとめ座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、自分なりの仕方で「<私>からの救済」のベクトルを追求してみるといいかも知れません。
蝶の群れのような私
思想家のジュディス・バトラーは、ちょうどマルクスにとって「商品」が人間の労働の「沈殿物」であったように、アイデンティティとは言説行為の繰り返しを通じて事後的に構築された沈殿物であり、こういう過程的なあり方を行為に先立つ「主体」と呼ぶのはふさわしくないとして、「行為体」とか「行為媒体」などと訳される“エージェンシー”と名付けました。
そこでは「主体が語る」のではなく、あくまで「言語が主体を媒体として語る」のであり、自己ということを「まったき能動性」でもなく、また「まったき受動性」でもない、言説実践が生起していく流動的で折衝的な「場」として捉え、自分が自分であることを想定していこうとしていった訳です。
となれば、そのような事態に「同一性(同じであることや一貫性)」を含意するような呼び名(自己同一性=アイデンティティ)を与えることは、もはや論理矛盾とさえ言えるのではないでしょうか。
その意味で、今週のてんびん座もまた、青ざめた金太郎飴のように終始一貫している自分自身を、複数の異なるそれの緩やかな連合態へとほどいていくことがテーマとなっていきそうです。
てんびん座の今週のキーワード
「南の方に向かって北方の星を眺めよ」