てんびん座
仮りの庵にて
生きてきた軌跡の表現
今週のてんびん座は、鴨長明の「うたかたの家」のごとし。あるいは、身辺整理を通して余分なものを削ぎ落としていこうとするような星回り。
日本三大随筆の一つ『方丈記』と言えば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という書き出しが有名で、深い無常感に裏打ちされた脱世俗の境地について書かれているものだと思いがちですが、実際に作者の鴨長明がもっぱら語っていたのは京都の街の様子と自身の栖(すみか)についてでした。
長明は、自身が隠れ住んだ京都郊外の日野山の小屋の「ありよう」について、次のように叙述しています。
東に三尺余りの庇(ひさし)をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚(あかだな)をつくり、北によせて障子をへだてて阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、まへに法華経をおけり。東のきはには蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。西南に竹の吊棚を構へて、黒き皮籠(かわご)三合をおけり。すなはち、和歌・管絃・往生要集ごときの抄物(しょうもの)を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張をたつ。いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。仮りの庵のありよう、かくのごとし。
家具だけでなく、琴や琵琶までが組み立て式であることを、どこか突き抜けたような、弾んだ調子で語るこの文体の特徴を一言で言えば「軽み」でしょう。少なくとも、50歳前後の「老」を匂わせるそれではなく、もう少し軽ければ「若さ」さえ漂っていたはず。
ちなみにここで言う「障子」とは今でいう「ふすま」のことですが、江戸時代の芭蕉のように乞食の境涯を理想とする向きとは全然違って、こちらはどこか優雅なミニマリズムを感じさせます。
長明は頭をそって僧衣をまとっていたとは言え、仏道修行者である以前に歌人であり音楽家でもありましたから、ここに書かれたささやかな財産目録はそのまま彼の生きてきた軌跡でもあり、その表現でもあったのです。
11月8日にてんびん座から数えて「持ち物」を意味する2番目のさそり座後半に太陽が入り立冬を迎えていく今週のあなたもまた、どうしたら自分の生きてきた来歴を、できるだけ「軽み」をもって表現ないし配置していくことができるかということがテーマになっていくでしょう。
ミシェル・ビュトール『時間割』の「ぼく」
この小説の主人公ルヴェルは一年間の長期出張でイギリスのブレストンという都市にやってきたのですが、次第に「脂じみた埃の巨大な沼」と描写されるこの迷宮のような街に飲み込まれ、自分を見失いかけていきます。
すでにこの都市のかずかずの詭計(きけい)がぼくの勇気をすり減らし、窒息させていた、すでにこの都市の病いがぼくを包みこんでいたのだ。(中略)すでにあの日からぼくは理解したのだ、ブレストンとは、城壁や街道の帯ではっきりと区切られ、田野を背景にくっきりと浮かび上がった都市ではなく、霧のなかのランプにも似た、いわば暈(かさ)の中心なのであり、暈の拡(ひろ)がりゆく外縁はほかの都市の外縁と結びついているのだということを。
そんな雨降りの街の中心で、「ぼく」は日記を書き続け、それが本書となって読者はそれを後追い読んでいく訳です。
多くの文章が一本の綱となってこの堆積のなかにとぐろを巻き、五月一日のあの瞬間へとぼくをまっすぐに結びつけている、五月一日のあの瞬間、ぼくはこの綱を綯(な)いはじめたのだ、この文章の綱はアリアドネの糸にあたる、なぜならぼくはいま迷宮のなかにいるのだから、迷宮のなかで道を見いだすためにぼくは書いているのだから。
この「ぼく」というのは、「うたかたの家」にいた鴨長明のちょうど裏面のようなところがあるのではないでしょうか。今週のてんびん座もまた、小説内の「ぼく」のように「語り」を通して自分を再構成していくようなところが少なからず出てくるはず。
てんびん座の今週のキーワード
反乱鎮圧のために赴いた遠征の地